上総御曹司
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:40 UTC 版)
保安4年(1123年)、白河院政の時代、崇徳天皇が即位した年に、源為義の長男として生まれる。母は白河院の近臣で淡路守・藤原忠清の娘。 この頃、かつて都の武者として名を馳せた河内源氏は一族内紛によって凋落し、父為義も自身の問題行動によって白河院の信頼を失い、官位は低迷して逼迫している状況にあった。 義朝は少年期に東国(関東地方)へ下向し、父・為義が伝領していた安房国丸御厨へ移住した。その後、上総国に移り、上総氏の後見を受け、「上総御曹司」と呼ばれた。丸氏・安西氏や坂東平氏の一部(三浦氏・上総氏・千葉氏など)が連携して庇護を行なった。 東国で成長した義朝は、南関東に勢力を伸ばし(房総半島内に加えて相模国など)、東国の主要武士団を統率し、河内源氏の主要基盤となるに至った。三浦義明・大庭景義ら在地の大豪族を傘下に収めた。相馬御厨・大庭御厨などの支配権をめぐって在地豪族間の争いにも介入した。それまでの居城があった沼浜(沼間)から高祖父の源頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷に館(亀谷殿)を移した。 長男・義平の母は三浦氏ともされ、相模の大豪族である波多野氏の娘との間には次男・朝長をもうけるなど、在地豪族と婚姻関係を結んだ。また、六男・範頼の母は遠江国池田宿の遊女とされ、長男・義平の母を同国橋本宿の遊女とする『尊卑分脈』の説、『平治物語』に登場する摂津国江口宿の遊女の娘とみられる「江口腹娘」など、遊女との間に子を儲けたとする話が多いが、これらの宿場はいずれも交通の要衝であり、「遊女」と称しても実際には単なる芸能民ではなく地元の有力者の子女であったとする説がある。 義朝の勢力伸張は、下野国の足利に本拠を置く義朝の大伯父である源義国の勢力と武蔵国などで競合することとなり対立を生んだが、その後、同盟を締び盟友となることで解消され、義国の子・義康と相婿となるなど連携を強めた。 義朝は20代前半で南関東の武士団を統率する地位を確立し、その活躍が都にも知られるようになった事で、中央進出への足掛かりを掴んだ。
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