上方の合羽摺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/10 02:49 UTC 版)
「上方絵」も参照 合羽摺の登場は、享保年間(1716-36年)の絵本『聖泰百人一首』扉絵とされる。蘇州版画からの影響か、友禅染の型紙の転用から生まれたと言われる。しかし、それ以前に、大津絵で合羽摺が採用されていたとの論があり、また他分野からの影響ではなく、職人なら自身で開発できるだろうとの仮説もある。 上方では、1813年(文化10年)頃に、江戸の錦絵が流入した後でも、合羽摺が併存し、1887年(明治20年)頃まで存続した。 画題は役者絵と「練物(ねりもの)」が大部分で、判型は、錦絵が大判もしくは中判が主流なのに対し、合羽摺は細判が多い。 浮世絵師ではないが、伊藤若冲の『花鳥版画』(1771年(明和8年)、平木浮世絵財団は6種所蔵。)は、木版摺と合羽摺の併用とされている。黒地部分は、裏から馬連跡が見えるのに対し、彩色部は馬連跡が在る箇所と無い箇所がある。刷毛ではなく筆を使用し、濃淡を変化させたり、顔料を吹くなど、高度な技術が投入されている。若冲は、親族に西陣織業者が居り、そこから友禅染の援用を思いついたのではと、山口真理子は指摘する。
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