一揆の収束とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 05:23 UTC 版)
永禄7年(1564年)1月15日の馬頭原合戦の勝利で、徳川家康は優位に立ち、和議に持ち込み、一揆の解体に成功する。和議の仲介にも関わった水野信元の書状には永禄7年の春には和議が整って国内が平穏になったことが記されている。その後、同年4月には小笠原氏が家康に従い、その後も抵抗を続けた吉良氏と酒井忠尚は追放されている。 一揆に与した武士の中には、主君への忠誠心と信仰心の板ばさみにあって苦しんでいる者もあった。その様な武士には一揆を離脱して帰参することを望む者が多くいたため、一揆は収束に向かった。またこの時、本宗寺は御坊を焼失し、勝鬘寺は伽藍を焼失していた。家康は和議を結ぶことで一揆衆を完全に解体させた後、本願寺の寺院に他派・他宗への改宗を迫り、これを拒んだ場合は破却した。 一方、本願寺の寺院の弾圧については次の見方もある。家臣の離反に悩まされた家康は自分に味方した家臣に対して徳政令を出して本願寺の寺院など敵対者からの債務の返済を免除した。ところが、一向一揆との和議後にその扱いが問題になった。和議の仲介にあたった水野信元は徳政令の一部でも認めて欲しいと本宗寺などに申し入れるが、本願寺の寺院は徳政令は和議の条件に反すると反発した。和議の条件と家臣との約束の間で追い詰められた家康は永禄7年12月もしくはそれ以降に本願寺の寺院の弾圧に踏み切ったとされる。 一揆の終結より19年後の天正11年(1583年)まで、三河国は本願寺教団禁制の地となった。しかし、家康は本願寺教団に厳格な処分を下す一方、離反した家臣には寛大な処置で臨む事で家中の結束を高める事に成功した(本多正信など、一部の家臣は出奔した)。 この一揆は、三河における分国支配の確立を目指した家康に対して、その動きを阻もうと試みた一向宗勢力が、一族や家臣団を巻き込んで引き起こしたものである。その意味では、松平宗家(徳川家)が戦国大名として領国の一円支配を達成する際に、必ず乗り越えなければならない一つの関門であったと考えられる。
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