ヴェルティンゲンの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 11:27 UTC 版)
「ウルム戦役」の記事における「ヴェルティンゲンの戦い」の解説
詳細は「ヴェルティンゲンの戦い(英語版)」および「ギュンツブルクの戦い(英語版)」を参照 理由は完全には分かっていないが、10月7日にマックはフランツ・クサーヴァー・フォン・アウフェンベルク(ドイツ語版)に5000名の歩兵と400の騎兵を用いて、オーストリア主軍がウルムを出て進軍するための準備として、ギュンツブルクからヴェルティンゲンに向かうよう命令した。不明瞭な目的と戦力の増強の望みがほとんどなかったため、ヴェルティンゲンは危険に晒されていた。最初に到着したフランス軍はミュラの騎兵軍団であり、ルイ・クレイン(英語版)の第1竜騎兵師団とマーク・アントワン・ド・ボーモン(Marc Antoine de Beaumont)の第3竜騎兵師団、エティエンヌ・マリー・アントワーヌ・シャンピオン・ド・ナンスーティ(英語版)の第1胸甲騎兵師団から構成されていた。これらの軍団がオーストリアへの攻撃を開始し、さらに北東からニコラ・ウーディノの擲弾兵が戦列に加わり、オーストリア軍に対して側面攻撃を仕掛けようとした。アウフェンベルクは南西に撤退しようとしたが、機動力が追いつかなかった。オーストリアはほとんど全ての兵力を失い、1000名から2000名が捕虜となった。こうして、ヴェルティンゲンの戦いはフランス側の勝利となった。 ヴェルティンゲンでの交戦を受けて、マックは右岸に沿って東へ撤退するのではなく、ドナウ川の左岸(北岸)で軍事行動を継続する意を決した。そのために、マックはギュンツブルクから北へ渡る必要があった。10月8日、ネイはルイ・アレクサンドル・ベルティエから翌日にウルムに直接攻撃を仕掛けるよう指示を受け、実行に移した。ネイはドナウ川にかかるギュンツブルクの橋を制圧すべく、ジャン=ピエール・フィルマン・マラー(英語版)の第3師団を送った。ギュンツブルクの戦い(英語版)において、師団の縦列はオーストリアの軍団に遭遇し、司令官のコンスタンティン・ギリアン・カール・ダスプレ(英語版)を含む200名の兵と2つのカノン砲を捕らえた。 この事態に気付いたオーストリア軍はギュンツブルク周辺に展開している自軍に3個歩兵大隊と20のカノンから成る増援を送った。マラーの師団は何度かオーストリアに対して果敢な攻撃を仕掛けたものの、全て失敗に終わった。マックはイグナツ・ギュライ(英語版)に7個歩兵大隊と4個騎兵大隊を送り、破壊された橋の修復に向かわせたが、遅れてやってきたフランス軍の第59歩兵連隊によって掃討された。掃討時に激戦が生じ、フランス軍は最終的にドナウ右岸(南岸)に橋頭堡をなんとか確保した。ヴェルティンゲンの戦いの間、ネイはエルヒンゲン(英語版)にあるドナウ川の橋を確保するためにルイ=アンリ・ロワソン(英語版)の第2師団を送り込んだ。エルヒンゲンはオーストリア軍によって、軽度の防衛が施されていた。ドナウ川の橋の大半を失ったので、マックはウルムへと引き返すために、行軍を開始した。10月10日までにネイの軍団は大きく前進した。マラーの第3師団はドナウ川南岸へと渡河し、ロワソンの第2師団はエルヒンゲンを保持し、ピエール・デュポンの第1師団はウルムへと向かった。
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