ロシア国家と清王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 07:30 UTC 版)
満州族の侵入の結果、中国は再び独立を失って満州族の帝国清王朝の一部となった(明清交替)。 1654年~1657年 ― フョードル・バイコフ(ロシア語版、英語版)の使節団が、外交的な失敗に苦しめられながらも数多くの資料や文書を収集した。 1675年~1678年 ― ニコライ・スパファリーの率いるスパファリー使節団(ロシア語版)が活動。中国を占領した満州族の帝国清王朝は、以前と変わらずアムール川流域(外満洲)のロシア人入植地を承認することを拒む。 1684年 ― 満州軍によるロシア人入植地への襲撃(清露国境紛争)があり、アルバジンとネルチンスクが攻囲された。 1689年 ― ネルチンスク条約が締結される。これはロシアと清王朝の間で交わされた初めての条約であり、両国の国境を画定させ、通商および紛争解決のための秩序を確立した。フョードル・ゴロヴィンの使節団が条約に署名。ロシアは、重要な戦略的価値を持つアムール川以南の領有権主張を取り下げた。 1727年 ― ブリンスク条約(ロシア語版)(ブリンスク協定)がサヴァ・ルキッチ・ウラジスラヴィチ=ラグジンスキー(ロシア語版、英語版)の率いるウラジスラヴィチ使節団(ロシア語版)によって取りまとめられた。ネルチンスク条約で規定された国境の明確化が含まれていた。 1727年 ― ロシアと清王朝の間における国境画定や通商について定めたキャフタ条約が、ブリンスク条約の取りまとめ作業を行っているウラジスラヴィチ使節団の滞在時に締結された。 1851年 ― グルジャ条約(ロシア語版、英語版)が締結される。これはロシアと中国の間で結ばれた通商協定で、中央アジアにおいて貿易経済関係を結び付けた。 1858年 ― 第二次アヘン戦争によって弱体化させられた清王朝は、ロシアとの間でアイグン条約に署名し、同条約によってロシアは沿海地方(ウスリー地方(ロシア語版、英語版))を含む満州の主要部を獲得した。 1860年 ― 清王朝と欧州諸国の間で戦われた第二次アヘン戦争の終結直後に様々な条約が締結され(北京条約)、そのうちの一つがアイグン条約の批准である。 1864年 ― カシュガル議定書が締結される。これは北京条約の付録である。この議定書は、カザフスタンによるロシアと清王朝への二重冊封体制を終焉させた。以後、カザフ人の大ジュズはロシア帝国に対してのみ忠誠を誓うようになった。
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