ロシア国家と中国の明王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 07:30 UTC 版)
「中露関係」の記事における「ロシア国家と中国の明王朝」の解説
その後、モンゴルが中原から追い出されてから、中国は再び国家を形成した(明王朝)。 1608年 ― ロシアは初めて中国人の王朝に足を踏み入れようと試みた。ツァーリのヴァシーリー・シュイスキーが、アルタン・ハーンの後裔が統治するモンゴルへ向かうロシア使節を中国人の国家に送る法令に署名した。だが、ショロイ・ウバシ・フンタイジ(モンゴル語版、英語版)と黒カルムイクの間で戦争が起こったため、使節団が目的地にたどり着くことはなかった。1616年に、コサック指導者アタマンを務めるヴァシーリー・チュメネツを団長とする使節団がモンゴルに到着した。この代表団はショロイ・ウバシ・フンタイジに迎え入れられたが、中国へ向かうことなくモスクワに舞い戻った。19世紀には、イヴァン雷帝の治世である1567年にアタマンのイヴァン・ペトロフとブルナシュ・エルィチェフが率いる使節団が中国に行った最初のロシア使節であると信じられていたが、これは古代ロシア語の写本に従ったものであった。しかし後世、その写本は偽文書であって、虚構の旅行記であるに過ぎないという事実が判明した。 1618年 ― トボリスクのヴォイヴォダ(領主)が、コサックのイヴァン・ペトリン(ロシア語版、英語版)を団長とするペトリン遣中使節(ロシア語版)を中国へ派遣して中露関係を開設した。 1641~1642年 ― コサックのエメリヤン・ヴェルシニンが中国を訪問。
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