ロシア国民楽派との論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 20:19 UTC 版)
「アレクサンドル・ファミンツィン」の記事における「ロシア国民楽派との論争」の解説
ファミンツィンは、ロシア音楽協会及びサンクトペテルブルク音楽院の設立者であるアントン・ルビンシテインをはじめとして、ニコライ・ザレンバやゲルマン・ラローシらとともにロシア音楽の保守的潮流を代表する存在だった。 1967年にルビンシテインが職を辞してロシアを去ると、ファミンツィンは保守派の代表格として、ミリイ・バラキレフらロシア国民楽派のグループと激しく対立した。彼は、バラキレフたちの無形式と国民主義を否定し、とくに音楽におけるロシア民謡の使用について、国民的な音楽伝統を創造する手段として適切ではないと主張した。こうした論争の中で、1869年にはバラキレフ派の論客であるウラディーミル・スターソフをファミンツィンが告訴する騒ぎにまで発展したが、スターソフは無罪となっている。 ファミンツィンの極度なまでの保守性は、スターソフやツェーザリ・キュイら対立相手だけでなく、同陣営のラローシからも批判された。「力強い一団」のメンバーであるモデスト・ムソルグスキーは、歌曲『古典主義者』(1867年)および『ラヨーク』(1870年)の二度にわたって、ファミンツィンのウィーン古典派に盲従する姿勢を風刺している。
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