ロシア国民解放軍時代
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「カミンスキー旅団」の記事における「ロシア国民解放軍時代」の解説
1942年1月8日、隊長のヴォスコボイニクが任務中パルチザンに殺害され、当時隊長代理の職にあったカミンスキーが市民軍の指揮を引き継いだ。この頃の主な活動は、ドイツ軍と共同での占領地の警備任務等であった。1942年末までに市民軍は、約10000名の兵力を擁するようになった。 カミンスキーは、この市民軍に公式の名称として「ロシア国民解放軍」という名称を付け、戦闘部隊としてドイツ軍に協力することを申し出た。ドイツ側はこれを受け入れ、かつ一層の協力の報酬として赤軍から鹵獲した野砲36門及びT-34戦車24両を与えた。これにより解放軍の戦力は大きく増強された。 1943年7月4日から開始されたツィタデレ作戦で解放軍は、ドイツ軍の補給ラインを守る戦いに参加する一方、この頃からパルチザン掃討、パルチザンの協力者摘発の任務に就くようになっていた。隊長のカミンスキーは、徹底した反共産主義者であったことからパルチザンに対して徹底した態度で臨んでおり、ドイツ軍の連絡要員は、解放軍本部の外の絞首台にぶら下がっている遺体を見たことを本部に報告している。 その後、ツィタデレ作戦の失敗とソビエト連邦政府による恩赦等をちらつかせた宣伝工作により、解放軍からの脱走者が相次ぎ、解放軍は維持が不可能と思われる状況になり、ついには第2連隊長がパルチザンへの寝返りを画策した。これは事前に暴露され事なきを得たが、事情を知ったカミンスキーは連隊本部へ直接赴き、第2連隊長を彼の部下の目の前で処刑して解放軍の崩壊を防いでいる。 解放軍は、構成員の多くを脱走により失ったため、後方地域に移動したが、その地域はパルチザン側の勢力地域であったため、かえって激しい戦いに巻き込まれている。このため、1944年初頭にはさらに後方地域へ移動、この時、強制的に集められたベラルーシ人の補充を受けている。
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