ロシア国民解放軍の結成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 02:50 UTC 版)
「ブロニスラフ・カミンスキー」の記事における「ロシア国民解放軍の結成」の解説
ドイツ軍がバルバロッサ作戦により、当時カミンスキーが滞在していたブリャンスクを占領したとき、カミンスキーの同級生であるコンスタンティン・ヴォスコボイニク(Konstantin Woskobojnik)は、ブリャンスクの町の代表者となり、カミンスキーはそのアシスタントになった。 その頃、町では近郊の森林を拠点に周辺の町や村に襲撃を繰り返していた赤軍パルチザンに悩まされており、町をパルチザンから守るため、ヴォスコボイニクと共に志願者を募集し、親ドイツ派住民による自警組織を結成した。当初数千人で組織された自警組織は、すぐに約10,000人に増加した。 自警組織が結成された直後、ブリャンスクの町は取り決めによってドイツ軍から自治権を与えられた。そして私企業の設置が認められ集団農場が廃止されるに至って、町には反共産主義のロシア人やベラルーシ人が移り住んできた。 1942年1月8日にヴォスコボイニクがパルチザンに対する任務中に殺された後、カミンスキーはヴォスコボイニクの後任として自警組織の指導者及び町の代表者になった。カミンスキーは自警組織に「ロシア国民解放軍」という公式名称を付け、さらに募集活動を行い構成員を約20,000人に増やした。 この頃、解放軍はパルチザン掃討任務等を行っていたが、反共産主義者のカミンスキーはパルチザンに対して徹底した態度で臨んでおり、ドイツ軍の連絡要員は解放軍本部の外に設けられた絞首台にぶら下がっている遺体を見たことを本部に報告している。 その後、ドイツ軍がツィタデレ作戦に失敗した頃、ソビエト連邦政府が恩赦等の条件をちらつかせて構成員の脱走を促したため、解放軍は多数の脱走者が発生して崩壊しかけたが、カミンスキーは断固として拒否し、強引な手段をもって崩壊を防いだ。
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