ロクスバラ公爵位の創設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 06:16 UTC 版)
「ロクスバラ公爵」の記事における「ロクスバラ公爵位の創設」の解説
ジョン・カー(1680頃-1741)はスコットランド国務大臣(英語版)を務めた人物で、イングランドとスコットランドの合同成立に尽力した。その功績を認められて1707年4月25日にスコットランド貴族としてロクスバラ公爵(Duke of Roxburghe)に叙されるとともに、ボーモント=セスフォード侯爵(Marquess of Bowmont and Cessford)、ケルソー伯爵(Earl of Kelso)、ブロックスマス子爵(Viscount Broxmouth)、セスフォード及びオーヴァートンのカー卿(Lord Ker of Cessford and Overton)を授けられて公爵家の始祖となった。一連の爵位には「ロクスバラ伯爵位を継ぐ者」といった継承要件が定められていた。また、スコットランド貴族の公爵位創設はロクスバラ公位で最後となった。 2代公ロバート(1709-1755)は初代公の一人息子である。彼は1722年5月24日にグレートブリテン貴族としてヨーク州ウェイクフィールドのカー伯爵(Earl Ker, of Wakefield in the County of York)及びヨーク州ウェイクフィールドのカー男爵(Baron Ker, of Wakefield in the County of York)に叙された。 3代公ジョン(1740-1804)はジョージ3世の治世下で寝室官長(英語版)やロクスバラ統監(英語版)を歴任した。しかし、3代公は未婚であり子がいなかったため、ウェイクフィールドのカー伯爵及びカー男爵位は共に廃絶した。他方、公爵位は遠縁の第7代ベレンデン卿が継承したため、ベレンデン卿位(Lord Bellenden)が公爵位の従属爵位となった。 しかし、4代公ウィリアム(1728-1805)も子のないまま死去するとベレンデン卿位は廃絶、公爵位は継承を証明できる人物がおらず休止(Dormant)となった。これを奇貨として、第6代準男爵サー・ジェームズ・イニス(1736-1823)はイニス家を通じて公爵家の祖(初代ロクスバラ伯爵(英語版))の女系子孫であったため、1807年にその姓に「カー(Ker)」を加えたほか、爵位と地所の継承を主張した。これには3人もの親族から異議が唱えられて、互いに公位を主張する事態となった。このロクスバラ公位継承事件は最終的には1812年に貴族院特権委員会よりジェームズに公爵位が帰属する旨の裁定がなされて落着した。また、彼の実家イニス家は1625年創設の(イニスの)準男爵(英語版)位(Baronet, of Innes)を世襲していたため、この準男爵位も公爵家当主が帯びることとなった。 5代公ジェームズ(1736-1823)ののちは、その一人息子ジェームズが公位を襲った。その6代公ジェームズ(1816-1879)はベリックシャー統監(英語版)やスコットランド国立銀行(英語版)総裁を務めたのち、1837年8月11日に連合王国貴族爵位のイニス伯爵(Earl of Innes)を得ている。 その孫である8代公ヘンリー(1876-1932)はニューヨークの不動産王オグデン・ゴレット(英語版)の娘メアリー・ゴレット(英語版)と結婚し、9代公爵となる長男ジョージ(9代公、1913-1974)を授かった。その孫にあたる11代公チャールズ(1981-)が2020年現在のロクスバラ公爵家当主である。
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