レギュラー獲得まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 07:29 UTC 版)
1954年、南海にテスト生として入団。背番号は60。同期入団には皆川睦雄や宅和本司がいる。 当時の南海は鶴岡監督の下、毎年優勝争いを繰り広げていた。シーズン当初は出場機会が無く、代打での初打席は三振、結局、一年目は9試合で11打数無安打だった。シーズンオフにマネージャーに呼び出され戦力外通告を受けるが、秋季キャンプ中に正捕手の松井淳が交通事故、2番手捕手の筒井敬三が高橋ユニオンズにトレード、3番手捕手の蓜島久美が頭部に死球を受けてケガをしたことで捕手不足となり残留した。 しかし肩が弱かったため、秋季キャンプで一塁手へのコンバートを言い渡される。当時の一塁手は球界を代表する飯田徳治が務めていたため、このままではレギュラーになれないと考えた野村は、砂を詰めた一升瓶やテニスボール、握力計、鉄アレイなどを使って筋力を鍛え、遠投で肩を強化した。このような努力が実り、2年目は一軍出場や日本シリーズの出場こそなかったものの、二軍で打率2位の成績を残し、シーズンオフの秋季キャンプで捕手に再コンバートされる。この時代、まっすぐ投げることができていないことを先輩に指摘され、その原因がろくにボールの握り方も知らないことであったことから、考えることの重要性を知ったという。また、「遠投は体全体で投げること」という先輩の言葉を「体全体を鍛えればいい」と解釈し、当時はまだタブー視されていたウエイトトレーニングを始めた。こういう経験から[要出典]、指導者となってからはプレースタイルなどについて考えることの重要さを口を酸っぱくして説いている。 3年目の1956年には背番号が19に変わる。ハワイでの春季キャンプで一軍メンバーに抜擢されると、そのまま正捕手に定着し、レギュラー1年目で早くもベストナインに選ばれた。なお、この段落にある経緯を鶴岡は、『私の履歴書』では若干異なる趣旨のことを書いている。
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