ルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホの記録
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「オルク・テムル」の記事における「ルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホの記録」の解説
1404年にティムール朝の首都サマルカンドを訪れたカスティーリャ王国の使節ルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホの旅行記には以下のような記述がある: キタイの皇帝はトクズ・ハーンと呼ばれた。“九つの帝国の皇帝”を意味する称号であるが、タタールの人たちは嘲弄してトングズと呼んでいた。それは彼らには“豚皇帝”とでもいうようなものである。…キタイ皇帝の派遣した使節団が到着した。そのティムールの口上は次のようであった。何人も知るところであるが、ティムールは以前にキタイの属領であった地方を占有した。したがって、年々の貢納はティムールからキタイ皇帝へ支払うべきであったが、この七年間一度も支払われていないので、今やティムールはその全額をただちに支払うべきである、と。殿下はこの使節たちに、さっそく支払いましょう、と答えた。…その間なんの要求もなかったというのは、最近キタイで起こっていたある事件のためで、ここでそのことを説明しておこう。そもそものはじめ、その頃統治していたキタイ皇帝(エンケ・ハーン?)が死んだが、その遺言では、三人の息子に彼の帝国の土地を分割することになっていた。長男(エルベク・ニグレスクイ・ハーン?)は無理もないことだったが、二人の弟をしりぞけて、帝国全土を自分のものにしようと欲した。そして。二人のうちの若い方(ハルグチュク・ドゥーレン・テムル・ホンタイジ?)を殺すことには成功したが、残る一人(クン・テムル・ハーン?)は反抗し、遂に彼に打ち勝ったのである。長男は弟と談合することはもはやできないと見て、自分の幕営に火を放ち、多くの従う者ともども焼け死んだのである。このようにして生き残ったひとりが現皇帝(オルク・テムル・ハーン)で、騒乱も収まり、秩序も回復すると、この新皇帝はティムールのところに使者を送り、その父の時代に支払われていた貢納を要求したのである」とある。 — クラヴィホ『ティムール帝国紀行』 この記述を基に、岡田英弘はエルベク・ハーンからオルク・テムル・ハーンに至る内紛をアリクブケ家の内紛と見る。ただし、上述したようにオルク・テムルらの出自については諸説あり、岡田が注釈内で参考文献として挙げている『クラヴィホ チムール帝国紀行』(山田信夫 訳, 東西交渉旅行記全集, 桃源社, 1967年4月)もオルク・テムルに相当するキタイ皇帝は明の成祖(永楽帝)と注している(因みに永楽帝には1404年時点で3人の息子がいる(長男朱高熾(洪熙帝)・次男朱高煦(漢王)・三男朱高燧(趙王)の3人。四男に朱高爔がいるが、1392年生まれで同年に夭折)。
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