ルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホの記録とは? わかりやすく解説

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ルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホの記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 16:43 UTC 版)

オルク・テムル」の記事における「ルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホの記録」の解説

1404年ティムール朝首都サマルカンド訪れたカスティーリャ王国使節ルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホの旅行記には以下のような記述がある: キタイ皇帝はトクズ・ハーンと呼ばれた。“九つ帝国皇帝”を意味する称号であるが、タタールの人たちは嘲弄してトングズと呼んでいた。それは彼らには“豚皇帝”とでもいうようなものである。…キタイ皇帝派遣した使節団到着した。そのティムール口上次のようであった何人も知るところであるが、ティムール以前キタイ属領であった地方占有した。したがって年々貢納ティムールからキタイ皇帝支払うべきであったが、この七年一度支払われていないので、今やティムールはその全額をただちに支払うべきである、と。殿下はこの使節たちに、さっそく支払いましょう、と答えた。…その間なんの要求もなかったというのは、最近キタイ起こっていたある事件のためで、ここでそのこと説明しておこう。そもそものはじめ、その頃統治していたキタイ皇帝エンケ・ハーン?)が死んだが、その遺言では、三人の息子彼の帝国土地分割することになっていた。長男(エルベク・ニグレスクイ・ハーン?)は無理もないことだったが、二人の弟をしりぞけて帝国全土自分のものにしようと欲した。そして。二人のうちの若い方(ハルグチュク・ドゥーレン・テムル・ホンタイジ?)を殺すことには成功したが、残る一人(クン・テムル・ハーン?)は反抗し遂に彼に打ち勝ったのである長男は弟と談合することはもはやできない見て自分幕営火を放ち多くの従う者ともども焼け死んだのであるこのようにして生き残ったひとりが皇帝(オルク・テムル・ハーン)で、騒乱収まり秩序回復すると、この新皇帝はティムールところに使者送り、その父の時代支払われていた貢納要求したのである」とある。 — クラヴィホティムール帝国紀行』 この記述を基に、岡田英弘エルベク・ハーンからオルク・テムル・ハーンに至る内紛アリクブケ家の内紛と見る。ただし、上述たようにオルク・テムルらの出自について諸説あり、岡田注釈内で参考文献として挙げている『クラヴィホ チムール帝国紀行』(山田信夫 訳, 東西交渉旅行記全集, 桃源社, 1967年4月)もオルク・テムル相当するキタイ皇帝は明の成祖永楽帝)と注している(因みに永楽帝には1404年時点で3人の息子がいる(長男朱高熾洪熙帝)・次男朱高煦(漢王)・三男朱高燧趙王)の3人。四男に高爔がいるが、1392年生まれ同年夭折)。

※この「ルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホの記録」の解説は、「オルク・テムル」の解説の一部です。
「ルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホの記録」を含む「オルク・テムル」の記事については、「オルク・テムル」の概要を参照ください。

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