リーダーバンド期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 06:29 UTC 版)
詳細は「ジェフ・ベック・グループ」および「ベック・ボガート & アピス」を参照 ヤードバーズ脱退後、ベックはミッキー・モストとプロデュース契約を結び、ソロ・シングル「Hi Ho Silver Lining / Beck's Bolero」を発表する。この「Hi Ho Silver Lining」は大ヒットし、NME誌のチャートで17位を記録する。 その後ベックは自身の新たなバンドを結成する。このバンドは一般には「ジェフ・ベック・グループ」と呼ばれている。ボーカルにはショットガン・エクスプレスに所属していたロッド・スチュワート、ベーシストがロン・ウッド、ピアニストがニッキー・ホプキンス、ドラマーがエインズレー・ダンバーであった。バンドはこのラインナップでシングル「Tallyman / Rock My Plimsoul」を発表するが、ほどなくエインズレーが脱退、代わってミック・ウォーラー (Micky Waller)が加入し、アルバム『トゥルース』を録音する。その後、メンバーの確執が表面化、1969年になってロン・ウッドとミッキー・ウォーラーが脱退。代ってドラムスがトニー・ニューマン (Tony Newman)に、ベースがダグラス・ブレイクに交代したが、ダグラス・ブレイクは短期間で解雇され、ロン・ウッドが再び加入した。セカンド・アルバム『ベック・オラ』の発表と前後してニッキー・ホプキンスが脱退。さらにロン・ウッドがフェイセズに加入するため脱退。ロッド・スチュワートも最終的にロン・ウッドと共にフェイセズに加入する。 その頃ベックは、ヴァニラ・ファッジのティム・ボガート、カーマイン・アピスと接近、彼らにロッド・スチュワートをボーカリストとして加え、新たなバンドを結成する予定であったが、直前の1969年11月2日にカスタム・メイドのT型フォードを運転中ロンドン南30マイルのメイドストーンで交通事故を起こし重傷を負い、3ヶ月の入院を余儀なくされる。この出来事により、新バンドの構想は白紙となってしまう。 怪我が完治したベックは新たなメンバーを集め、再び自身のリーダーバンドを結成する。このバンドは日本では「第2期ジェフ・ベック・グループ」とも呼ばれている。このグループはベースにクライヴ・チェイマン、キーボードにマックス・ミドルトン、ドラマーにコージー・パウエル、ボーカルにボブ・テンチというメンバーであった。このバンドはジャズやモータウンといったブラック・ミュージックからの影響を大きく受けており、それまでのブルース路線とは異なるものだった。 1971年にアルバム『ラフ・アンド・レディ』、翌年『ジェフ・ベック・グループ』を発表し、その活動も好調に行われたものの、ベックは再びカクタスで活動していたティム・ボガートおよびカーマイン・アピスと接触。8月のアメリカ・ツアーで突如メンバーを変更して、第2期ジェフ・ベック・グループは空中分解してしまう。 バンドに残ったボガートとアピスに加えボーカリストとしてポール・ロジャース招聘を図るもこれは失敗し、結局ベック・ボガート & アピスとして活動することとなる。ベック・ボガート & アピスは2枚のアルバムを残し、1974年にはベックとボガートの対立から自然消滅する。 なお、同年4月のパリ公演後にディープ・パープルを脱退(公式発表は6月)したリッチー・ブラックモアの後釜として候補に挙がっているが、実際にはオーディションに至らなかったと言う経緯がある。
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