リュミエール社によるシネマトグラフの事業化
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「シネマトグラフ」の記事における「リュミエール社によるシネマトグラフの事業化」の解説
グラン・カフェでの上映会は成功を収めたが、リュミエールはシネマトグラフを束の間の流行品と見なしていたため、その熱が冷めてしまう前にあらゆる利益を急いで引き出さなければならないと考えていた。また、グラン・カフェで上映会を行う前から、リュミエールのもとにはシネマトグラフの購入や上映権の譲渡を求める問い合わせが殺到していた。そこで1896年初頭からリュミエール社は、以前から計画を立てていたシネマトグラフを世界中で利用するための新事業に着手した。まず1月初めに、カルパンティエに200台のシネマトグラフを製造するよう依頼した。これとほぼ同時に、フィルム製造業者のヴィクトル・プランション(フランス語版)にセルロイドを用いた感光フィルムの研究をさせ、リヨンにセルロイド工場を設立してフィルムの生産を始めた。 リュミエール社はシネマトグラフを市販せず、自分たちの独占的管理下に置いた。小松弘はその理由を、シネマトグラフを売り渡すことでその仕組みが知られ、容易にコピーが作られるのを避けるためと、長期的な利益を得るためであると指摘している。リュミエール社はシネマトグラフを操作する技師を養成したあと、彼らを世界各地に派遣し、代理人制度のもと現地で上映会と撮影を行うという経営戦略を採り入れた。代理人制度は、その土地で信頼できると認めた人物を興行代理人に任命し、彼らにシネマトグラフの上映権を一定の条件のもとに譲渡するというシステムである。興行代理人はシネマトグラフを無料で貸与され、総売り上げの半分を受け取ったが、その代わりにシネマトグラフの技師の給料と上映会の費用を負担した。 世界各地でのシネマトグラフの上映会は、劇場やホテルなどを会場にして数週間から数ヶ月行われた。1回の興行時間は20分から30分ほどで、10本または12本の短編作品でプログラムが組まれ、時には講演者による紹介や解説が付けられた。このように複数の短編作品でプログラムを組むという上映パターンは、映画史初期に普及した各地のフェアグラウンド(市場やサーカスが開かれる公有地)を回る巡回映画興行で踏襲され、その後何年にもわたって残ることになった。また、シネマトグラフはその国の権力者や王侯貴族の前で上映会が行われたり、彼らを撮影したりすることもあり、それはシネマトグラフを広く宣伝するための効果的な方法となった。
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