リグレーの所有権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/11 16:31 UTC 版)
「アバロン (カリフォルニア州)」の記事における「リグレーの所有権」の解説
1919年2月、チューインガム業界の大立て者ウィリアム・リグレー・ジュニアがサンタカタリナ島とそれに関わる資産の支配権をバニング兄弟からを購入した。その買収前に妻のアーダと息子のフィリップと共にカタリナ島に旅行しており、即座にこの島を愛するようになった。リグレーは島の保存と宣伝に没頭するようになり、必要とするインフラやアトラクションのために多額の金を投資した。アバロンの町を見下ろすアーダ山(妻の名前をつけた)に家を建て、工事の進み具合を観察できるようにした。 リグレーがこの島を買ったとき、島に行くための蒸気船はハーモサ2世号とS・S・カブリリョ号だけだった。成長を促すために、リグレーはさらにS・S・バージニア号という蒸気船を購入した。幾らかの調整をした後に、その船はS・S・アバロン号と改名された。さらに別の蒸気船S・S・カタリナ号のデザインも考えており、1924年5月3日に進水することになった。これらの蒸気船で長年カタリナ島に乗客を運んだ。リグレーはシカゴ・カブスが春季キャンプに島を使うように誘致して、アバロンの町への関心を上げた。カブスは戦争の中断期間(1942年-1945年)はあったものの、1921年から1951年まで春季キャンプに島を使った。 リグレーの優先事項の中に、観光客のために新しく改良されたダンスホールを造ることがあった。バニング兄弟がホテルを建設するために整地させていたシュガーローフ・ポイントを使ってダンスホールを建設し、シュガーローフ・カジノと名付けた。それはダンスホールの他にアバロン初の高校としても機能した。1928年、このカジノを壊して新しいカジノを立てる場所とした。カジノのオーシャンビューを良くするためにシュガーローフ岩が爆破された。1929年5月29日、アール・デコ調の新しいカタリナ・カジノが完成した。その低層階にはアバロン劇場が入った。上層階は直径180フィート (55 m) と世界最大の円形ダンスホールが入った。1930年代を通じてこのホールには、ベニー・グッドマン、スタン・ケントン、ウディ・ハーマン、ジーン・オートリーなど、芸能界の多くのビッグネームが訪れた。 1932年にウィリアム・リグレー・ジュニアが死んだ後、息子のフィリップ・K・リグレーがサンタカタリナ島会社を引き継いだ。フィリップはアバロン市のインフラ整備など父の仕事を継続した。第二次世界大戦中、島は観光目的では閉鎖され、アメリカ海運訓練施設など軍事的な訓練用途に使われていた。カタリナの蒸気船は兵士の輸送船として取り上げられた。
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