ラデツキー将軍の戦勝祝典
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「ラデツキー行進曲」の記事における「ラデツキー将軍の戦勝祝典」の解説
当時イタリア半島では民族統一運動が盛んで、オーストリア帝国領であった北イタリアでは「ドイツ民族からの独立」を目指して激しい闘争が繰り広げられていた。1848年7月、ヨーゼフ・ラデツキー将軍の率いるオーストリア陸軍がこれの鎮圧に成功した。この勝利を記念するために、「イタリアで戦った勇敢なる将兵の賞賛と傷病兵への募金を兼ね、寓意的、象徴的表現と格別な啓蒙を意図した大勝利感謝祭」が8月31日に開かれることとなった。 シュトラウスはこの祝典のために新曲を依頼され、作曲に取りかかった。かつての楽団員ですでに独立していたフィリップ・ファールバッハ1世の協力を得て、ウィーンの民謡を2つ採り入れて、わずか2時間で完成したといわれる。大変な好評を博したが、この行進曲によってシュトラウスは文句なしに君主制支持者のレッテルを張られることになった。以後シュトラウスのコンサート会場は、多くの士官と「国民自衛団」の市民で埋め尽くされたという。この行進曲のおかげで政府軍の士気は大いに高揚し、のちに政府側の人々からこのように言われた。 「 ウィーンを革命から救ったのは、ヨハン・シュトラウスである。 」 それまではワルツ『ローレライ=ラインの調べ』(作品154)がシュトラウスの代表作とみられていたが、この『ラデツキー行進曲』が初演後たちまちシュトラウスの既存のすべての作品の影を薄くしてしまった。
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