モンテ・カッシーノ、アンツィオの戦い
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「イタリア戦線 (第二次世界大戦)」の記事における「モンテ・カッシーノ、アンツィオの戦い」の解説
年が明けて1944年1月上旬、連合軍はラーピド川・ガリリャーノ川沿いのグスタフ線に達し、アンツィオでの上陸作戦と呼応して、ローマへの北上の障害となるカッシーノ付近の枢軸軍の制圧を目指した(モンテ・カッシーノの戦い)。1月17日連合軍は渡河を開始、22日にアンツィオで上陸作戦(シングル作戦)を開始した。カッシーノでの渡河は撃退されたものの、上陸作戦のほうは枢軸軍に備えが無く成功した。 ここで上陸部隊の指揮官米第6軍団長ルーカスは、拙速なローマへの進撃を避け、当面は現状の上陸橋頭堡を維持し十分な戦力を集めることに専念するよう主張した。連合軍の動きが止まったのを見たケッセルリンクは、アンツィオに増派し2月中旬反撃を開始、連合軍の橋頭堡は分断されてしまった。 この失敗と、すでにノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)・南フランス上陸作戦(アンヴィル作戦)の準備に入っていたため、連合軍はこれ以上のイタリアでの上陸作戦を断念、米第5軍がグスタフ線で攻勢をかけることにした。 この頃、カッシーノの枢軸軍は、川沿いからは後退し、山頂の要塞化されたベネディクト会修道院とその背後の尾根伝いに陣地を敷いていた。連合軍は2月から3月にかけて、予備の自由フランス軍・自由ポーランド軍も投入し、川沿いから直に修道院へ攻めあがるルートで、激しい爆撃の中4度攻撃をかけたが、ことごとく失敗。連合軍はさらに戦力を整えるため攻勢を中断、5月まで戦線は膠着した。 5月連合軍は数箇所で同時に行動を開始、17日ポーランド軍が東から尾根のドイツ軍陣地に攻撃を開始、その間自由フランス軍が修道院の西から回り込みグスタフ線の裏の小陣地線まで進撃。23日にはアンツィオでも攻撃を開始、枢軸軍の陣地線は完全に崩壊し、カッシーノ=アンツィオ間で包囲される危機的状況であったが、米第5軍が南下せず北のローマを目指したため、枢軸軍は抵抗しつつ中部イタリアの陣地線まで後退した。
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