モンテ・カッシーノ、アンツィオの戦いとは? わかりやすく解説

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モンテ・カッシーノ、アンツィオの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 02:57 UTC 版)

イタリア戦線 (第二次世界大戦)」の記事における「モンテ・カッシーノ、アンツィオの戦い」の解説

年が明けて1944年1月上旬連合軍ラーピド川ガリリャーノ川沿いのグスタフ線に達しアンツィオの上作戦呼応してローマへ北上障害となるカッシーノ付近枢軸軍制圧目指した(モンテ・カッシーノの戦い)。1月17日連合軍渡河開始22日アンツィオ上陸作戦シングル作戦)を開始したカッシーノでの渡河撃退されたものの、上陸作戦のほうは枢軸軍備え無く成功した。 ここで上陸部隊指揮官第6軍団長ルーカスは、拙速ローマへ進撃避け当面現状の上陸橋頭堡を維持し十分な戦力集めることに専念するよう主張した連合軍動き止まったのを見たケッセルリンクは、アンツィオ増派2月中旬反撃開始連合軍橋頭堡分断されてしまった。 この失敗と、すでにノルマンディー上陸作戦オーバーロード作戦)・南フランス上陸作戦アンヴィル作戦)の準備入っていたため、連合軍これ以上イタリアでの上作戦断念、米第5軍グスタフ線で攻勢をかけることにした。 この頃カッシーノ枢軸軍は、川沿いからは後退し山頂要塞化されたベネディクト会修道院とその背後尾根伝い陣地敷いていた。連合軍2月から3月にかけて、予備自由フランス軍・自由ポーランド軍投入し川沿いから直に修道院攻めあがるルートで、激し爆撃の中4度攻撃をかけたが、ことごとく失敗連合軍はさらに戦力整えるため攻勢中断5月まで戦線膠着した。 5月連合軍は数箇所同時に行動開始17日ポーランド軍が東から尾根ドイツ軍陣地攻撃開始その間自由フランス軍修道院西から回り込みグスタフの裏の小陣地線まで進撃23日にはアンツィオでも攻撃開始枢軸軍陣地線は完全に崩壊しカッシーノアンツィオ間で包囲される危機的状況であったが、米第5軍南下せず北のローマ目指したため、枢軸軍抵抗しつつ中部イタリア陣地線まで後退した

※この「モンテ・カッシーノ、アンツィオの戦い」の解説は、「イタリア戦線 (第二次世界大戦)」の解説の一部です。
「モンテ・カッシーノ、アンツィオの戦い」を含む「イタリア戦線 (第二次世界大戦)」の記事については、「イタリア戦線 (第二次世界大戦)」の概要を参照ください。

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