メキシコシティへの遠征隊の帰還
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「エルナンド・デ・ソト」の記事における「メキシコシティへの遠征隊の帰還」の解説
デ・ソトの遠征は、期待された財宝や植民地化に最適な場所を見つけることができずに、3年間ラ・フロリダを探検していた。およそ半分の隊員を失い、馬のほとんどは殺されており、彼らは動物の皮を衣服にして多くは負傷して不健康であった。その後、多数の合意によって遠征を中止することが決定され、ミシシッピ川を下るか、テキサスを渡ってスペイン領植民地のメキシコシティへ陸路で行くかの、帰途を見つけようとしていた。 ボートを作ることは困難で時間がかかるため、メキシコ湾を航行するのは断念し、陸路で南西に向かった。最終的に、インディアンが狩猟採集で自給自足を営んでおり、人口もまばらで乾燥した、現在のテキサスの地域に到達した。ところが、食べ物を略奪するためのインディアンの村がなく、食糧が不足していた。 彼らはやむを得ず、ミシシッピ川沿いのもう少し開けた地域に引き返し、そこでボートを作り始めた。馬具や奴隷の足かせを含む、持っていた鉄すべてを溶かし、ボート用の釘を作った。冬が過ぎ、春の洪水でさらに2ヶ月費やされたが、7月までにはミシシッピ川を下ってメキシコ湾岸に向けて出発した。旅行にはおよそ2週間かかり、全体のコースにわたってインディアンの領地を通って漂流していたため、時には何日間もかけてボートをカヌーで追ってくる、敵対的なインディアン部族の矢に悩まされた。スペイン人は弓矢を長い間使っていなかったため、水上で攻撃できるような武器を何一つ持っていなかった。そのため、矢を防ぐために鎧兜や敷き布団をあてにするしかなかった。およそ11名のスペイン人がこの航行で死亡し、多くが負傷した。 ミシシッピ川河口に到達すると、ボートは湾の海岸沿いに南西に向けてまっすぐ進み、およそ50日後に彼らはパヌコ川とスペインの辺境の町パヌコに到達した。そこでおよそ一ヶ月休んだ。この時多くのスペイン人隊員が、入植地を見つけることなくしてラ・フロリダを出発したのは早計だったとして反乱を起こし、数名が死亡した。メキシコシティへの旅を続けたが、副長のドン・アントニオ・デ・メンドーサが別のラ・フロリダへの遠征隊に加わらないかと提案したときには、志願したものはほとんどいなかった。当初700名いた関係者は、300〜350名が生き残り(311名が一般的に受け入れられた数)、結局そのほとんどは、メキシコ、ペルー、キューバやその他のスペイン領の新世界に住み着いた。
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