ムンダネウムとは? わかりやすく解説

ムンダネウム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/28 21:02 UTC 版)

ポール・オトレ」の記事における「ムンダネウム」の解説

1910年、オトレとラ・フォンテーヌ初めて「知識都市」の構想描いた。もともとオトレはその都市を「Palais Mondial」(世界宮殿)と命名しており、世界中情報中心的なリポジトリとして役立つだろうと考えていた。第一次世界大戦終わった直後1919年に、オトレとラ・フォンテーヌは、世界都市プロジェクトのための場所と資金提供することが自国国連本部を置くというベルギー企て支持するのに役立つと主張して世界都市プロジェクトのための場所と資金提供するように政府説得した。彼らにはブリュッセルにあるサンカントネール公園左翼にあった政府建造物与えられた。その後、彼らは世界書誌目録増強させるためにスタッフ雇った1922年世界宮殿は、ジョルジュ・トゥニス首相政府からの支援の不足により閉鎖されてしまったが、オトレとラ・フォンテーヌロビー活動の後に再開された。オトレは1924年世界宮殿をムンダネウムと改名した世界書誌目録着実に進展し1927年にはインデックスカード1300万枚にもなり、最終年1934年には1500万枚以上に及んでいた。インデックスカード特注キャビネット収められ国際十進分類法に従って索引付けされていた。コレクション別の部屋収められるファイル(手紙報告書新聞記事などを含む)や画像も含むようになり、これらの資料についてインデックスカードによって目録作られた。ムンダネウムは最終的に10万件のファイルと何百万件もの画像含んでいた。1934年ベルギー政府によるプロジェクトへの資金が再びカットされ事務所閉鎖された。(オトレは閉鎖され事務所の外で徹夜をすることで抗議をしたが、その甲斐はなかった。) しかしドイツベルギー侵攻した1940年まで、コレクション事務所内に手をつけられないまま残されていた。ドイツ軍によって第三帝国美術品コレクション保持するためにムンダネウムの地区接収され、その過程でムンダネウムの相当量あるコレクション破壊されたため、オトレと彼の同僚らはムンダネウムの新し本拠地探すことを余儀なくされた。レオポルド・パークにある大きいが老朽化した建物新し本拠地となり、オトレの死後の1972年にそこから移動せざるを得なくなるまで、そこで彼らはムンダネウムをできる限り再構成した。

※この「ムンダネウム」の解説は、「ポール・オトレ」の解説の一部です。
「ムンダネウム」を含む「ポール・オトレ」の記事については、「ポール・オトレ」の概要を参照ください。

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