ミュンヘンへの移住と逮捕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:25 UTC 版)
「アドルフ・ヒトラー」の記事における「ミュンヘンへの移住と逮捕」の解説
1913年5月、24歳になったヒトラーは隣国ドイツの南部にあるミュンヘンに移住し、仕立て職人ポップの元で下宿生活を送った。ヒトラー自身はオーストリアとウィーンの腐敗した環境に耐えられなかったと述べているが、実際には徴兵忌避罪を逃れるためであったと見られている。ヒトラーは故郷リンツにおいて徴兵検査を受けなかったことで兵役忌避罪と、その事実を隠して国外に逃亡するという2つの犯罪を犯した立場となった。事実が発覚して逮捕された場合、1か月から1年の禁固刑と2000クローネの罰金という重罪が科せられることが想定された。この移住に際してヒトラーは、自分をオーストリア国民ではなく「無国籍者」であると申請している。 リンツ警察は8月11日から捜索を開始し、ヒトラーは1914年1月18日にミュンヘン警察によって逮捕、オーストリア領事館に連行された。仰天したヒトラーは領事館員のすすめで書いた弁明書で、1910年2月にウィーンで兵役の申告を行ったとした上で、「(1909年ごろには)誰からの金銭上の援助がなく」と、自らの貧困を訴える嘘を書き連ねている。ヒトラーは納税証書を同封し、労働者階級としては多い年収1200マルクの収入があったが、支出が多いため現在も裕福ではないと弁明している。実際にはミュンヘンでの生活は安定しており、近所の人々からも信用されていた。ヒトラーはインテリ風の良い身なりをしており、家主のポップとはよく政治論を戦わせていたという。このころの月収は100マルク程度あったが、当時同年齢の銀行員の月収は70マルクであった。さらに1913年5月16日には、孤児金庫から819クローネ98ヘラーの資産が交付されている。1914年1月18日、ザルツブルクで行われた検査で不適格と判定されたため兵役を免除され、罪も免除された。
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