マンチェスター時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 15:02 UTC 版)
「ダグラス・ハートリー」の記事における「マンチェスター時代」の解説
1929年、マンチェスター大学数学科で応用数学の教授となった。1933年、マサチューセッツ工科大学のヴァネヴァー・ブッシュを訪問し、微分解析機について詳しく学ぶ。マンチェスターに戻るとすぐさまメカノを使って微分解析機の製作を始めた。その機械を使って数値解析の可能性がさらに広がることを確かめ、ロバート・マクドゥーガル卿にさらに丈夫な機械への資金援助を要請。その機械はメトロポリタン=ヴィッカースと共同製作することとなった。 その機械の最初の用途はハートリーの鉄道ファンとしての面が発揮され、ロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道の時刻表の計算だった。その後10年間、物理学における様々な微分方程式を微分解析機で解くことに費やした。それには、制御理論、流体力学の境界層理論など、様々な分野への貢献が含まれる。 微分解析機は交換相互作用の方程式を解くのには向いていなかった。それについて研究していたころフォックの論文が発表され、ハートリーは電磁波の伝播へと方向転換し、アップルトン-ハートリーの式(英語版)を導き出した。1935年、父ウィリアム・ハートリーが息子のために計算することを申し出、間もなく交換相互作用を考慮した結果が得られた。ダグラスは配置間相互作用の重要性を認識し、それを "superposition of configurations"(配置の重ね合わせ)と称した。1939年、ハートリー親子と Bertha Swirles の連名で、最初の多配置ハートリー-フォック法 (MCHF) に関する論文を発表した。 1935年、Bertha Swirles はハートリーの助言を得てディラック方程式を使って原子間の交換相互作用の方程式を導出。1940年、ハートリーの助言から R. B. Lindsay の学生 A. O. Williams が(交換相互作用を無視した)初の相対論的方程式を発表した。
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