マレーシア時代
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1963年9月16日、シンガポールは晴れてマレーシアの一部となったが、連邦は短命に終わる。UMNOによって支配されているマレーシア政府は、シンガポールの住民の大多数を占める華人系住民の包含と、マレーシアにおける人民行動党の政治参加に懸念を抱くようになった。リーは公然とブミプトラ政策の「マレー人などの土着民を優遇するマレーシア」に反対し、人民行動党のスローガンとして「マレーシア人のためのマレーシア」を主張した(当時シンガポール島の華人系住民もマレー人も含めて「マレーシア人」であり、マレー人のみへの優遇政策を批判した)。このことから双方の関係は悪化してしまい、UMNOの中にはリーの逮捕を主張する者もいた。 人種間の対立は激しさを増し、預言者ムハンマドの誕生日である1964年7月21日には、マレー人と華人系住民が激突し、23人が死亡、100人以上が負傷するといった事態も発生した。同年9月にはさらに大規模な暴動が発生し、事態の収拾を図るため、双方のリーダーであるリーとラーマンが、そろって公の場に姿を見せることを強いられた。食糧を含む物資の輸送に著しい困難を来すようになり、物価が劇的に上昇し、国民の生活にさらなる困難を招いた。 事態の解決は絶望的な状況になり、首相であるラーマンは「中央政府への忠誠を示さなかった州政府とは、全ての関係を断ち切る」といった方針から、シンガポールをマレーシアから追放することを決定した。リーは連邦に留まろうと頑ななまでに打開策を考え続けたものの、失敗に終わった。1965年8月7日、リーはマレーシアからの分離に合意する文章に署名した。 このことは、マレーシアとの合併だけが、シンガポールが生き残るために重要と考えていたリーにとって、大きな打撃となった。そして、8月9日にシンガポールの独立を発表するテレビ中継の中で、 私にとって、今は苦渋の時です。生涯、私は二つの領域の合併と統一を信じてきました。私リー・クアンユーは、自由と正義の原則、多くの人々の福祉と幸福の探求、平等な社会を築くことに基づき、本日1965年8月9日に、シンガポールが永久に主権民主主義、ならびに独立国家であることを宣言いたします。 — リー・クアンユー と市民に語り掛けた上で、シンガポールの独立を宣言した。独立自体が、かつてのマレー独立運動の盟友であった、ラーマンからの追放宣言に等しかったこともあって、生放送の最中には、自制心を失って泣きだす場面もあった。
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