マディソン家の奴隷
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「モントピリア (ジェームズ・マディソンの邸宅)」の記事における「マディソン家の奴隷」の解説
1723年から1844年までマディソン家がモントピリアを所有していた期間に、多い場合には7世代目のアフリカ系アメリカ人の奴隷がこの地に生まれた。この頃には奴隷達の貢献と犠牲はマディソン一家がモントピリアで日常生活を送る上で必要不可欠なものになっていた。モントピリアの奴隷の多くがプランテーションのために働く現場労働者であった。この他に家事使用人(例:料理人、ウェイター、執事、メイド、庭師)や、技能訓練を受けた熟練労働者(例:大工、鍛冶屋)などで構成されていた。 モントピリアの最も著名な奴隷ポール・ジェニングス(英語版)(1799-1874)はわずか10歳の時に使用人として、ホワイトハウスに移動したジェームズ・マディソン大統領夫妻に同伴し、ジェームズ・マディソンが亡くなるまでの16年間は1日おきに彼のヒゲ剃りを担当した。ジェニングスは1847年に合衆国上院議員のダニエル・ウェブスターによって解放され、ワシントンD.C.に定住して財産所有者となった。1865年に最初の「ホワイトハウスの回顧録」と考えられている『A Slave in the White House: Paul Jennings and the Madisons,』を出版したことで注目された。回顧録の中では1814年のホワイトハウス焼失直前の脱出時の様子やジェームズ・マディソンが奴隷に親切であったこと、晩年に生活に困窮していたドリー未亡人にポケットマネーを与えたことなどを振り返っている。 考古学調査によって、モントピリア生まれの奴隷キャサリン・テイラー(1820頃-1892以後)の生活ぶりについて多くのことが明らかになった。キャサリンは奴隷ラルフ・テイラーと結婚し、4人の子供をもうけた。ドリー未亡人がジェームズ・マディソンの死から8年後にワシントンD.C.に移動した時、ラルフは彼女に対する奉仕のために同伴することを選んだが、キャサリンはプランテーションに残ることを決めた。1852年1月17日に亡くなったドリーの息子ジョン・ペイン・トッドは死後に自身が保有している奴隷を解放することを遺言書に規定していたが、彼は死亡時に多額の借金を抱えていた。このために直ぐには解放されず、テイラー一家は財産の管理者に請願した後に自由の身となった。
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