ポートシカゴの惨事と戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 04:54 UTC 版)
「カールトン・H・ライト」の記事における「ポートシカゴの惨事と戦後」の解説
「ポートシカゴの惨事」も参照 1944年7月17日、ポートシカゴ(英語版)の海軍兵器庫で大爆発が発生して、死者320名、負傷者390名を出す、後世に「ポートシカゴの惨事」と呼ばれる大事故が発生した。死傷者には多くのアフリカ系アメリカ人の水兵が含まれており、彼らの作業環境はよくなく「積み込み競争」が行われていた。査問委員会と追悼式が開かれたのち、ライトは犠牲者の幾名かに海軍・海兵隊勲章(英語版)を追贈して事故の早期幕引きを図り、再開される弾薬搭載計画のために水兵の尻を叩いた。しかし、補充された新兵は以前と変わらぬ危険な作業環境をよしとせず、通称「ポートシカゴの50人」を初めとする328名の水兵は事実上のストライキに入った。ライトは作業に戻るよう促すが、「ポートシカゴの50人」はこれに納得せず「反逆者」扱いにされて営倉行きとなった。軍法会議如何によっては重罪は明らかではあったが、海軍内における人種差別の実態が徐々に明らかになるにつれ風は変わり、戦争終結後からの軍における人種差別撤廃の契機となった。 1946年3月、ライトは太平洋艦隊および太平洋区域担当の軍査察使(英語版)となり、次いでマリアナ諸島方面部隊の副司令を務めたのち、1948年10月に退役する。その後は1970年6月27日に78歳で亡くなるまで、カリフォルニア州クレアモントで余生を過ごした。
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