ポルシェ設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 10:09 UTC 版)
「アドルフ・ローゼンベルガー」の記事における「ポルシェ設立」の解説
1931年4月25日、フェルディナント・ポルシェがポルシェ設計事務所を設立した。ポルシェ設計事務所の設立に際して、設立資金として、ポルシェ自身が24,000ライヒスマルクを出資し、アントン・ピエヒ(英語版)が3,000ライヒスマルクを出資した。ローゼンベルガーはポルシェ事務所が設立される際のもう一人の出資者となり、ピエヒと同じく当初は3,000ライヒスマルクを、追加で80,000ライヒスマルクを出資して、設計事務所の初期の経営を支えた。ポルシェは自身が商人としての考え方のできない人間であることを知っていたことから、優秀な営業マンでもあったローゼンベルガーは事務所の商業面を任された。 1932年にドイツの自動車メーカー4社が合併してアウトウニオンが設立され、同社の取締役会議長(最高経営責任者)には、ローゼンベルガーの友人であるクラウス・フォン・ウルツェン(英語版)が就任した。その関係を介して、ウルツェンはポルシェの設計したレーシングカーに興味を持つようになる。 翌1933年1月、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)のアドルフ・ヒトラーが首相に任命され、ヒトラー政権が成立した(ナチス・ドイツの始まり)。ヒトラーは自動車産業を振興し、レース活動にも援助が約束され、アウトウニオンはレーシングカーの設計をポルシェに依頼することとなる。一方で、ユダヤ人であるローゼンベルガーにとっては困難の始まりとなった。 アウトウニオンのタイプA試作車が完成すると、ニュルブルクリンクでテストが開始され、ローゼンベルガーもドライバーとしてそれに加わり、ハンス・シュトック(英語版)と互角のタイムを出した。しかし、ドイツのモータースポーツ活動を統括するようになったナチ党の国家社会主義自動車軍団(NSKK)はユダヤ人であるローゼンベルガーへの競技ライセンスの発行を拒否し、レース参戦の可能性は断たれた。 ローゼンベルガーはポルシェ設計事務所における権限を友人のハンス・フォン・ヴァイダー=マルベルク(ドイツ語版)に譲り、自身はフランス、次いでスイスへと移住し、同地でのポルシェの海外展開を助けた。しかし、1935年にドイツに帰国した際に、アーリア人女性と関係を持ったことが人種的不名誉行為として咎められ、9月5日にゲシュタポによって逮捕され、キスラウ(ドイツ語版)の強制収容所に送られた。 ヴァイダー=マルベルクが賄賂を贈ったことでローゼンベルガーは解放され、ローゼンベルガーは再びフランスに移住した。
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