ベラミーの最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 08:44 UTC 版)
「ポールスグレイブ・ウィリアムズ」の記事における「ベラミーの最期」の解説
1717年4月、一味はウィンドワード海峡でローレンス・プリンス船長(彼はヘンリー・モーガンと航海したこともある元バッカニアだった)が指揮する大型の奴隷船ウィダー号を捕捉した。スルタナ号とマリアンヌ号は3日間かけてウィダー号を追跡し、拿捕した後にバハマ諸島ロング島まで連行した。ベラミーたちはウィダー号を旗艦とすることに決め、プリンスにはスルタナ号を与えて解放した。同月、一味はサウスカロライナの沖合でビーア船長のスループ船を拿捕し、船を沈めた。 ビーア船長の一件の後、一味はバージニアに向かったが、霧によってウィダー号とマリアンヌ号が離れ離れになってしまう。ウィリアムズは2隻の船を襲いつつブロック島の親戚を訪ね、当地で何人かを仲間に加えた。一方のベラミーもバージニア沖でアン・ギャレー号などのいくつかの船を襲撃していた。ベラミーとウィリアムズがこの地域で海賊行為を働いているというニュースは地元の商人たちをパニックにおとしいれた。この地の交易と航海は事実上停止状態となり、ベラミーはメインに向かい、ウィリアムズはロングアイランドに向かった。 4月26日、ウィダー号はウェルフリートで嵐に遭遇し、海岸から約10マイルの地点に強烈な勢いで流されて沈没した。ベラミーを含む100人以上の乗組員が死に、生き残ったのはたったの2人だった。ウィリアムズもロングアイランド沖で嵐に巻き込まれるが切り抜け、メインを目指した。クルーによればベラミーとウィリアムズはメインのケープエリザベス沖にあるリッチモンド島で落ち合うことにしていたのだという。5月、ウィリアムズはプロビンスタウン近くでセイラムから来たスクーナー船の船長と話をし、ウィダー号が沈没してベラミーも死に、財宝も全て失われたというニュースを聞いた。ウィリアムズは失望し、カリブ海に戻ることを決めた。 プロビデンス島に向かって南下するウィリアムズは、道中の沖合で多数の船を襲い、ニュージャージー、デラウェア、バージニア、カロライナなどの植民地を恐怖に陥れた。また、捕らえた船長が反抗的だからという理由で"冷酷に打ち据えた"などの虐待を加えた。ニュージャージーの沖合ではマリアンヌ号に無理矢理乗せられた乗組員たちが反乱を起こし、ウィリアムズは彼らに手ひどい反撃を与えた。反逆者のうち数人は帆桁に吊るされて殺されたという。
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