プリウェルヌムとアンティウムとの戦い(紀元前341年)
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「ローマ・ウォルスキ戦争」の記事における「プリウェルヌムとアンティウムとの戦い(紀元前341年)」の解説
紀元前343年、カンパニアの支配をめぐってローマとサムニウムの間に第一次サムニウム戦争が勃発する。紀元前342年、何人かの古代の作家によると、ローマは市民の不安と軍の反乱に悩まされていた。リウィウスは、この隙をついてプリウェルヌムがローマの植民市であるノルバ(en)とセティアを奇襲したと述べる。また、アンティウムが中心となったウォルスキ軍がサトゥリクムに終結しているとの報告も届いた。ローマではプリウェルヌムとアンティウムに対する作戦を紀元前341年の執政官の一人であるガイウス・プラウティウス・ウェンノが担当し、もう一人の執政官ルキウス・アエミリウス・マメルキヌス・プリウェルナスがサムニウムとの戦争を担当することとなった。ウェンノはまずプリウェルヌムに勝利し、そこを占領した。街にはローマの守備隊が置かれ、領土の2/3が没収された。ウェンノは続いてアンティウムとサクリトゥムに向かった。両軍の戦いは激しく、嵐が戦闘を終了させなかったら、両軍共にさらに損害は大きくなっていたであろう。ウォルスキは自軍の損失を考慮して、夜間にアンティウムに撤退することを決定した。この際に負傷者と軍需品の一部を残していった。ウェンノはウォルスキ軍が戦場に残していった大量の武器を集め、ウォルスキ軍の野営地でそれを焼却し、ルア女神(en)に捧げるように命じた。続いて、ウォルスキ領土を略奪しながら、海岸製沿いに進んだ。 ウォルスキがローマとの戦争を始めた動機は、ローマにはサムニウムとの戦争と内部不和があったこと、ローマにカンパニアの支配権を握られるとローマ領土に囲まれてしまうことであった。しかしながらリウィウスの記述の一部に対しては、現代の歴史家は疑問を呈している。ローマによるプリウェルヌムの占領に関しては、紀元前329年にもプリウェルナスが二度目の執政官になったときに記録されている。このときの同僚執政官はガイウス・プラウティウス・デキアヌスであった。このため、現代の歴史家の一部は、紀元前341年の戦いは紀元前329年の重複記述と考えている。この主張を支持する証拠の一つとして、ローマは旧プリウェルヌム領に「ウフェンティヌス」トリブス(選挙区)を設立しているが、これは紀元前332年の国勢調査ではなく紀元前318年の国勢調査においてである。即ち、紀元前341年の占領後には調査対象から外れている。とは言うものの、当時多くの戦争を行っていたローマが、プリウェルヌムを二度占領することがあっても不思議ではない。国勢調査の件は偶然の一致かも知れないし、ローマの守備隊がプリウェルヌムに置かれたのが歴史的事実であっても、長期間そこに留まっていたとは限らない。アンティウムに対する作戦は、ローマにとってそれほど重要なものではなかった。嵐で戦闘が終了したというのは後世の創作であろうし、ルア女神に対する武器の奉納も事実では無いかも知れない。しかしこれらが後世の加筆であったとしても、紀元前341年の戦いが無かったとは言い切れない。
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