フリーエージェント制度の導入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 09:11 UTC 版)
「1976年のメジャーリーグベースボール」の記事における「フリーエージェント制度の導入」の解説
前年暮れに、メッサースミスの年俸調停の場で、ピーター・サイツによる仲裁裁定によってメッサースミスは自由契約となり、どの球団とも交渉ができることになったことはメジャーリーグに大きな衝撃を与えた。そして1975年オフから年俸に不満な選手は球団とは契約書を交わさずに無契約状態で1976年のシーズンに参加する選手が続出した。この契約書にサインせずに無契約で過ごす年をオプションイヤーと呼ばれることになった。アスレチックスのオーナーチャーリー・フィンリーは、1976年の開幕1週間前にレジー・ジャクソンとケン・ホルツマンをオリオールズへトレードした。そして6月にヴァイダ・ブルーをヤンキースへ、ローリー・フィンガーズとジョー・ルディをレッドソックスにそれぞれの契約を譲渡する交渉に入った。譲渡価格を合計350万ドルとする計画であった。フリーエージェント制を見越して、その前に稼ぐ算段であった。これにコミッショナーのキューンが反発して承認が得られず、フィンリーが訴訟を起こす事態となった。選手契約の譲渡はコミッショナーの承認が必要であった。 こうした状態の中で連盟は選手会と協議した上で、メジャーリーグ在籍が6年以上過ぎた選手に限り他球団との交渉を認める方針を出し、ここに1976年オフからフリーエージェント制度(FA制)の導入が決まった。その後の紆余曲折はあるが、ここでマービン・ミラー選手会事務局長は「完全に自由なフリーエージェント制」は望まず、球団が選手を6年間保有することを認め、そこでフリーエージェントを宣言する権利を有することを確認した。ミラーは在籍6年の選手に限り、全体で毎年のフリーエージェントになる選手数を限定する方針を出した。「完全に自由なフリーエージェント制」になると逆に選手の年俸総額が下がることを見通していたからである。 1976年のシーズン終了の最終戦ではいつもと違った異様な雰囲気となった。アスレチックスでは、オーナーを嫌う主力選手の殆どがFAを待ち望み、シャンパンをかけあって「解放」を祝った。「来年もここに残らなければならない選手が気の毒だ」と言ったローリー・フィンガーズとテナスはパドレスへ行き、サル・バンドーはブルワーズへ、バート・キャンパネリスはレンジャーズへ、ジョー・ルディとベイラーはエンゼルスへ移った。キャットフィッシュ・ハンターは前年にフィンリーの過失から実質フリーエージェント第1号としてヤンキースに移り、この年にオリオールズにトレードされたレジー・ジャクソンもフリーエージェントでヤンキースに移り、2年前に世界一だったチームで残った主力選手はヴァイダ・ブルーとビリー・ノースくらいだった。 こうして保留条項に選手が縛られた時代は終わった。そして新しい制度の恩恵を受けて最も成功を収めたのは人気が高く、名門であり、資金力が豊富なニューヨーク・ヤンキースであった。
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