ピュージェット湾へのルート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 10:25 UTC 版)
「ノーザン・パシフィック鉄道」の記事における「ピュージェット湾へのルート」の解説
しかしながら、ジェイ・クックのような莫大な資金を投入した路線建設が、ビラードを消耗した。ウォール街の弱含みの値動きが、路線完成後すぐに株式を直撃した。NPの長大な路線は、ビジネスにならないことが判明したのである。ビラード自身、完成後数日のうちに神経を消耗したと言われている。ビラードはNPの社長を辞し、1884年1月には療養のためにドイツに戻った。 そして、NPの経営は、再び鉄道のプロの手に戻った。シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道(CB&Q)の社長であったロバート・ハリス(Robert Harris)がNPの社長となった。ビラード派がカムバックするまでの4年間、ハリスは財産の価値を向上させ、ORNCとのもつれた関係を整理した。 1880年代中盤を通じて、NPはコロンビア川沿いの遠回りのルート(ポートランドを経由する、南に大きく迂回するルート)よりも、カスケード山脈を越えてピュージェット湾に直結することの検討を続けていた。 1870年代から断続的になされていたカスケード山脈の調査が、改めて開始された。ベテランの土木技術者であるバージル・ボーグ(Virgil Bogue)がカスケードの再調査のために送り込まれ、1881年3月19日にスタンピード峠(Stampede Pass)のルートを発見した。 1884年、ビラード体制となったのち、東はワルーラから、西はウイルケソンから、スタンピード峠に向けて建設が開始された。同年末までに、東はワシントン州ヤキマまで到達した。1886年には、残る区間は77マイル(124km)となった。 同1886年1月、ネルソン・ベネットはスタンピード峠直下に9,850フィート(3,000m)のトンネルを掘る契約を締結した。その契約では工事期間が短く設定され、もし超過した場合は大きなペナルティが課されることとなっていた。作業員がトンネル内で作業をしている間、峠越えのスイッチバックが建設された。膨大な数のティンバー・トレッスルや6%に近い勾配のために、当時世界最大の蒸気機関車であったMクラス(車軸配置2-10-0)の重連でさえ、牽引できる客車の数はわずか5両であった。1888年5月3日、トンネルは貫通。同27日、処女列車が峠を越えてピュージェット湾に下っていった。
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