ビアク支隊善戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/09 05:53 UTC 版)
5月27日、ビアク島南岸の日本軍陣地への猛烈な空爆及び重巡「オーストラリア」を中心とする艦隊の艦砲射撃の後、アメリカ軍は南東方のボスネック海岸へ上陸した。進攻兵力は第41歩兵師団の第162歩兵連隊および第186歩兵連隊を基幹とする25,000名であった。アメリカ軍はビアク支隊の長が大佐クラスであることなどから日本軍の兵力を4,400名程度と過小評価していた。そして、ボスネック地区から海岸沿いに突き進んでモクメル飛行場地区を一挙に占領しようと図った。 しかしビアク島の地形は日本軍に利した。海岸を見下ろす台地には至るところに頑丈な天然の洞窟があり、将兵を砲爆撃から護っていた。28日、M4中戦車を先頭に前進するアメリカ軍第162連隊第2、第3大隊に対し、日本軍は十字砲火を浴びせ、歩兵の肉薄攻撃により戦車3両を損壊させた。師団長ヒュラー少将はこの戦況に狼狽し、第6軍司令官クルーガー中将へ増援要請を送った。クルーガー中将は直ちに第163歩兵連隊の増派を指示した。 翌29日、ビアク島に取り残されていた沼田中将は自ら第一線部隊を指揮し、アメリカ軍の先頭部隊への反撃を命じた。午前8時、岩佐洋中尉の率いる九五式軽戦車9両が突入し、アメリカ軍もM4中戦車を繰り出して戦車戦が開始された。日本軍は戦車7両を失い、岩佐中尉も戦死したが、アメリカ軍は中戦車2両が大破し、また戦車部隊の勇戦を見た日本軍歩兵部隊が前進してきたため包囲される危機に陥り後退を余儀なくされた。アメリカ軍は海岸を見下ろす台地を制圧しない限り飛行場地区の占領は困難と判断、31日には第163歩兵連隊がボスネックに上陸し、時間をかけての迂回作戦に切り替える。日本軍は6月8日にボスネックに夜襲をかける予定であったが6月7日にアメリカ軍が迂回路からモクメル第1飛行場に突入してきたため中止になった。8日、日本軍はモクメル第1飛行場を占領したアメリカ軍に対して夜襲を仕掛けたが失敗し、飛行場を見下ろす位置にある西洞窟へ撤退し立てこもった。日本軍はモクメル第1飛行場を見下ろす台地に陣地をかまえ、飛行場を使用しようとするアメリカ軍に対してしばしば砲撃や夜襲をかけたため、22日までアメリカ軍はモクメル第1飛行場を使用できなかった。
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