バーサ・パーマー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 09:25 UTC 版)
「サラソータ (フロリダ州)」の記事における「バーサ・パーマー」の解説
バーサ・オノレ・パーマーは20世紀初め頃に地域最大の土地所有者、牧場主、農園主、開発者であり、9万エーカー (360 km2) 以上の土地を所有していた。A・B・エドワーズがシカゴの新聞に載せた広告を見て、サラソータにやってきた。エドワーズとはその後も事業での関係を続けることになった。市内メインストリートのファイブポインツに設立したパーマー国定銀行は、世界恐慌の間もその息子が率いて強力な銀行として生き残り、1976年にサウスイースト銀行と合併した。 バーサ・パーマーは現在のマイアッカ川州立公園にも広大な土地を所有していた。当時は牧場として使っていた。牛の飼育を可能にする革新的な方法を開発して実行し、州内でも大きな存在になった。そのメドウスウィート農園では、大規模農業と酪農業を始め、国内各所の市場に出荷できるほど作物の生産を可能にする手法開発に重大な貢献を果たした。その実験は州の農業管理部門と協業していた。 ヨーロッパでの戦争が脅威になってくると、パーマーはその社交界の仲間にサラソータの美しさと、外国の典型的な観光地の代わりとする利点を売り込んだ。パーマーはウェッブ家が持っていた敷地に冬の家を建てた。地域に初めて来る人々に訴えるリゾートを建設した。金持ちが冬に隠棲する流行の場所として、また観光客が休暇を過ごす場所としてのサラソータを作り上げ、それが戦後まで継続し、1920年代に、さらに第二次世界大戦後も国内で大きく発展した新しい富裕層にもてはやされた。 パーマーが出した初期の宣伝の中で、サラソータ湾をナポリ湾に喩え、また釣りの面白さを売り込んでいた。時と共に湾の豊穣さが観光客を集め続け、過漁によって資源が枯渇するまでに至った。 パーマーは元のウェッブ家の建築群の大半を守り、敷地を大きく拡大した。その敷地は歴史あるスパニッシュポイントとしてアメリカ合衆国国家歴史登録財に登録され、無料で一般公開されている。しかし、パーマーが観光客を泊めていたジ・オークスは保存されていない。 オーウェン・バーンズも1910年にサラソータに来ており、バーサ・パーマーの直ぐ後だった。バーンズは直ぐに現在の市内で最大の土地所有者になったので、パーマーが所有していた大きなサラソータの土地の多くは、現在のサラソータ郡(パーマーの存命中は郡になっていなかった)にある。市内の道の多くはパーマーが作ったトレイルに彼女が付けた名前を残している。しかしパーマーは他の者達と共に市内の投機にも加わっており、未開発の土地を大量に購入したので、多くの土地に彼女あるいはその息子の名前が残っている。 パーマーの息子がその事業を継ぎ、1918年にバーサが亡くなった後も、サラソータの投資家であり、篤志家でもあった。休暇を過ごす場所やシックな冬の家として世界中の注目を浴びたこと以外にも、パーマーが導入した牧畜業と農業の改良で知られ、彼女が所有した土地にあるオスカー・シェアラー州立公園の一部と、広大なマイアッカ川州立公園の2つはサラソータに彼女が残した偉大な遺産だということができる。
※この「バーサ・パーマー」の解説は、「サラソータ (フロリダ州)」の解説の一部です。
「バーサ・パーマー」を含む「サラソータ (フロリダ州)」の記事については、「サラソータ (フロリダ州)」の概要を参照ください。
- バーサ・パーマーのページへのリンク