バルグジン・トクム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 14:55 UTC 版)
『元朝秘史』での漢字表記は巴児忽真脱窟木、『集史』でのペルシア語表記はبرقوجین توکوم(Barqūjīn tūkūm)。また、『元史』では「巴児忽真隘(或いは巴児忽真之隘)」とも表記されている。 バルグジン・トクムについて、『集史』「バルグト諸部史」は以下のように述べている。 彼等(バルグト、コリ、トゥラス)をバルグトと称する由来は彼等の住地がセレンゲ方面にわたっており、これはモンゴル人が住んでいた極限の地であり、そこがバルグジン・トクム(Barqūjīn tūkūm)と呼ばれているからである……。 — ラシードゥッディーン『集史』「バルグト諸部史」 「バルグジン・トクム」の指す範囲については、研究者の中でも諸説ある。一つには現代においてもブリヤート共和国を流れ、東からバイカル湖に流れ込むバルグジン川という河川が存在し、「バルグジン・トクム」とはこのバルグジン川流域一帯を指す、という説がある。 一方、「バルグジン・トクム」がバルグジン川流域一帯のみならず、広くバイカル湖周辺地域を指す呼称である、という説もある。『集史』「トゥマト部族志」にトゥマト部がキルギス部・バルグト部とそれぞれ隣接していると記されていること、キルギス部の居住地はイェニセイ川上流一帯であることを踏まえると、「バルグジン・トクム」の領域はバルグジン川流域一帯のみならず、バイカル湖周辺一帯と考えるのが合理的であるためである。 また、マルコ・ポーロの東方見聞録にも「バルグジン・トクム」に関する記述が存在する。 上記した歴代カーンの埋葬地たるアルタイ山及びカラコロンを立って北方に旅を続けると、バルグ平原という土地を通過する。この平原は約40日行程の延長をもって広がっている。住民はメクリット(メルキトの誤りか)と呼ばれる狩猟生活の野人である。このあたりには鹿が多く棲息し、嘘のように聞こえるかもしれないが、土人は本当にこれを騎乗に使用している。この平原は北辺で太洋に接し内部に湖沼が多い関係から、鳥類も豊富で、土人はこれを常食の一部に充てている……。土人はカーンに隷属し、その風俗・習慣はタタール人とほとんど変わらない……。 — マルコ・ポーロ『東方見聞録』 ここで言う「バルグ平原」こそがバルグジン・トクムに相当するものと考えられている。また、漢文史料に記録される「八里灰田地」も「バルグジン・トクム」の意訳であると見られている。 なお、『集史』では「バルグジン・トクム」という地名から「バルグト」という部族名が起こったかのように記しているが、実際にはBarγudに女性形容詞inが付され、BarγudinからBarγuǰinへと転訛したと考えられている。
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