タイチウト氏の弱体化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 22:06 UTC 版)
「クイテンの戦い」の記事における「タイチウト氏の弱体化」の解説
12世紀末、モンゴル高原東方のモンゴル部族内ではジャジラト氏(ジャダラン氏)のジャムカとキヤト氏のテムジン(後のチンギス・カン)との間での主導権争いが激しくなり、やがて両者はダラン・バルジュトの地で激突した(十三翼の戦い)。この戦いの勝敗については諸説あるが、いずれにせよこの戦いを経てジャムカは人望を失ったようで、1190年代にはジャムカ陣営からテムジン陣営に寝返る者が多数現れた。この中には後に四駿四狗に数えられるスルドス氏のチラウンとベスト氏のジェベ、千人隊長に任じられたニチュグト・バアリン氏のアラク、ナヤア兄弟、ジャライル部トランギト氏のジョチ・チャウルカンらがいた。 1200年(庚申)、ジャムカ勢力の弱体化を好機と見たテムジンは同盟勢力ケレイト部のオン・カンと合流し、オノン河においてジャムカ陣営最大の勢力を有するタイチウト氏を急襲した。タイチウト氏の首領タルグタイ・キリルトク、アンクゥ・アクチュウ(アウチュ・バアトル)、クリル、クドダル(クドウダル)らがこれを迎撃したが敗れ、ウレン・トラスの地にてタルグタイ・キリルトクらは捕虜となり、アンクとアウチュらはバルグジン・トクムに、クリルはナイマン部にそれぞれ逃れた。 このような状況に危機感を懐いたのがモンゴル部のカタギン氏、サルジウト氏、ドルベン氏、コンギラト部といった未だテムジンに服属していないモンゴル高原東方の諸部族で、上記4部族にタタル部族を加えた5部族はアルクイ泉で会盟し、雌雄の馬を斬ってキヤト・ケレイト連合を打倒することを誓った。これらアルクイ泉同盟軍の動きは、コンギラト部(ボスクル氏)の人間であるがテムジンの義父でもあるデイ・セチェンによってテムジンに知らされ、キヤト・ケレイト連合軍は急ぎ軍を興してブイル湖附近でアルクイ泉同盟軍を撃ち破った。
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