バリクパパンの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/24 14:27 UTC 版)
「ボルネオの戦い」の記事における「バリクパパンの戦い」の解説
6月15日からバリクパパン付近で、アメリカ海軍が掃海作業を開始した。以後、バリクパパンでの作戦完了までに機動掃海艇4隻が触雷沈没し、砲撃などで駆逐艦以下の数隻が損傷した。 7月1日、巡洋艦5隻などの艦砲射撃の後に、バリクパパンにオーストラリア第7師団が上陸した。連合軍の参加兵力は33500人で、第二次世界大戦最後の大規模上陸戦であるとも評される。3日の朝までに上陸した連合軍部隊は17000人に達し、この間初日だけでも3万発にも及ぶ猛烈な艦砲射撃が支援した。日本軍は海軍第22特別根拠地隊を基幹に11000人の兵力を有し、2つの飛行場周辺などに防備を固めていた。日本軍は油田防空用の対空砲を転用したものも含め相当に強力な砲台を保有し、オーストラリア軍の戦車3両を立て続けに撃破することもあった。しかし、日本軍には専門の地上戦闘員が少なく、次第に拠点を失い、9日までに飛行場は占領された。 7月下旬まで追撃戦が行われ、以後も終戦まで散発的な戦闘が続いた。オーストラリア軍の記録によると日本兵1800人以上が戦死したのに対し、オーストラリア兵の損害は戦死229人、負傷664人だった。また第七艦隊のほうは沈没、損傷の掃海艇で7名の戦死者を出しただけだった。
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