ハンガリーとコーカサスの戦線
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「アフメト1世」の記事における「ハンガリーとコーカサスの戦線」の解説
彼が即位した時、帝国は東西両方で戦争を続けており、ハンガリーとの長期戦争では、状況が逆転し、トランシルヴァニア、ワラキア、モルドバでは、反ハプスブルクの反乱が起き、トランシルヴァニアで傀儡のボチカイ・イシュトヴァーンを君公に選出した。また、オスマン側は、大宰相のソコルルザーデ・ララ・メフメト・パシャの元、1604年にペスト、ヴァークを奪還した。1605年の8月にエステルゴム城塞を包囲し10月に陥落させた。そして、1606年に、大宰相のクユジュ・ムラト・パシャによって、干渉地帯のジトヴァ川で、ジトヴァ・トロク条約が成立した。その内容は、互いに王とよばずに皇帝と呼ぶこと(第2条)、平和を守ること(第4条)、侵略をやめること(第5条)、神聖ローマ皇帝が20万フォリントをイスタンブールに届けること、エステルゴムとカニジャの城塞はオスマン側に、コマロムの城塞はハプスブルク側が領有すること、などだった。また、ハプスブルク家の君主をカイザーと認めたことは、画期的であり、コンスタンティノープル陥落以来、スルタンが唯一の称号として皇帝を名乗っていた。次にスルタンが皇帝として認めたのは、1774年のキュチュク・カイナルジ条約の時であった。 ジェラーリーの反乱に対しては、クユジュ・ムラト・パシャ率いる政府軍が討伐にあたり、徹底した強硬な対応により、1608年までに反乱を鎮圧した。クユジュ・ムラト・パシャは1611年に亡くなったため、後任にナスフ・パシャが就任した。ジェラーリーの反乱の後、集権化を進めるためにアナトリアのラマザン侯国は廃止された。ラマザン侯国は1516年にセリム1世に征服されたがそのあと90年にわたってラマザンのベグは旧来の統治体制で治めていた。 その一方で東方ではサファヴィー朝の反撃により1607年までにムラト3世の時に獲得した今のアゼルバイジャンの地域などのコーカサスの領土を失った。オスマン帝国軍は失地を回復すべく、ユスフ・シナン・パシャの指揮のもと、ナフチバンを経由してエレバンを占領し、そこで冬を過ごした。その後タブリーズを取り戻すべくアッバース1世と戦うが、敗れてしまった。オスマン側はサファヴィー朝に十分に対抗できないと考え、1612年に大宰相ナスフ・パシャによって、ナスフ・パシャ条約を締結した。条約の内容は、サファヴィー朝がオスマン側に絹200ラクダを送ること、国境を1555年のアマスィヤの講話のものにすること、だった。 1612年、カピチュレーションをオランダに与えた。また、ジェノヴァ、ラグサ、アンコーナ、フィレンツェ、スペインの商人たちもフランスの旗のもとに貿易できるようにした。 サファヴィー朝との和平を締結したナスフ・パシャは1614年にアフメト1世によって処刑され、次の大宰相にオキュズ・メフメト・パシャが就任した。1615年、サファヴィー朝がかつてナスフ・パシャ条約に定められていた絹200ラクダを送らなかったため、オキュズ・メフメト・パシャはペルシャ遠征の準備をし、1616年にエレバンへ侵攻したが、これに失敗し、大宰相を解任させられた。変わって大宰相に就任したダマト・ハリル・パシャは冬にガンジャ、ジュルファ、ナフチバンを攻撃した。
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