ジェラーリーの反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 05:54 UTC 版)
ハプスブルク家とハンガリーを巡って戦争している頃、足下のアナトリアやシリアでは、反乱が相次いでいた。その反乱者はジェラーリーといった。彼らは財政難に陥った中央政府によって封土を没収されたスィパーヒーやワクフの減少によって貧困化したマドラサの学生、そして土地を没収された農民や遊牧民らであった。その反乱の第一波は1596年に始まる。ジェラーリーらは下級軍人のカラ・ヤズジュの反乱に合流をした。1600年にカラ・ヤズジュはスルタンであると宣言した。オスマン側はハンガリー戦線に忙殺され、その討伐に十分な兵力を割けない事態になった。カラ・ヤズジュは1601年にソコルル・メフメト・パシャの息子でバグダードの知事のソコルルザーデ・ハサン・パシャに敗れたが、カラ・ヤズジュの兄のデリ・ハサンが翌年にソコルルザーデ・ハサン・パシャを打ち取った。1602年にカラ・ヤズジュは死ぬがデリ・ハサンが跡を継いだ。また、他の地方でも、ウズン・ハリルの乱、カレンデルオールの乱、ジャンポラントの乱などが起きた。ジェラーリーの反乱において、騎馬で機動力のある山賊の集団が各地で村や町を襲ったため、オスマン帝国の台帳にあったはずの村までが消える事態にまでなった。これにより、所領の村から徴税で生計を立てていた在郷騎士たちが、生活できなくなり、彼ら自身もジェラーリーになるという負の連鎖が存在した。さらには、カラ・ヤズジュ討伐にあたっていたはずのカラマン州軍政官も待遇への不満から反乱軍に加わった。 ジャンポラントの乱を起こしたジャンポラント(アラブ名ジュンブラード)は、オスマン王家による支配を不正であると捉えて、自分がそれにとって変わろうとした。ジャンポラントはもともとシリアとの国境に近いキリス地方の支配者であったが、勢力がシリアへ拡大するとレバノンの名家マアンオール家と結んでアレッポを足場に独立宣言をした。 カレンデルオールの乱を起こしたカレンデルオールは手下に当てた手紙で、「オスマン王家は圧政者で、彼らは増長しきっている。ジャンポラントの反乱以降我々はオスマン家に見切りをつけ、命ある限りは彼らに服従しない。アッラーの加護があるならば我々は、オスマン軍を打ち負かし、ユスキュダル(ボスホォラス海峡のアジア側)からこちら側をオスマン王家に諦めさせる。」と書いてある。オスマン王家はバルカン半島を支配すれば良い、アナトリアは我々が支配する、という意思が感じられる。
※この「ジェラーリーの反乱」の解説は、「メフメト3世」の解説の一部です。
「ジェラーリーの反乱」を含む「メフメト3世」の記事については、「メフメト3世」の概要を参照ください。
- ジェラーリーの反乱のページへのリンク