ハンガリーとの連合解消とヤドヴィガの推戴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/03 14:07 UTC 版)
「ポーランド・アンジュー朝」の記事における「ハンガリーとの連合解消とヤドヴィガの推戴」の解説
ラヨシュ死後は、その年長の娘マーリアおよびその許婚であるルクセンブルク家のジギスムント(ヨハン盲目王の孫でカジミェシュ3世の女系の曾孫)が共同統治を行うことになっていた。しかし、両人ともポーランドの敵であるドイツ騎士団への親近感を隠すことはなかった。そこでポーランド貴族の中でもマウォポルスカ一派はマーリアの妹であるヘドヴィグ(ヤドヴィガ)を女王に選出した。他方、ヴィェルコポルスカ一派はマゾフシェ=ピャスト家のシェモヴィト4世を選出し、内戦が勃発する。結局、ヤドヴィガがハプスブルク家のヴィルヘルムとの婚約を破棄し、シェモヴィト4世と婚約することで両派の和解が行われた。そして1384年にヤドヴィガの戴冠式が行われ、ハンガリーとの連合は完全に解消された。
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