ハンガリーとの抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:10 UTC 版)
バサラブはハンガリー王カーロイ1世に臣従しており、カーロイ1世は1324年7月26日付の文書においてバサラブを「我らがワラキアのヴォイヴォド」と呼んでいた。 しかし、1325年6月18日付のハンガリーの文書には「ハンガリー王権に不誠実なワラキアのバサラブ」と記されており、ハンガリーに仕えるクマンのある貴族はバサラブの力はハンガリー王を超えているとさえ言っていた。ハンガリーの歴史家István Vásáryは、バサラブはハンガリー王国の領土である、後代のオルテニアに相当するセヴェリン・バナト(en)を占領していたため、カーロイ1世から反逆を疑われていたのではないかと推測している。一方、ルーマニアの歴史家Tudor Sălăgeanは、1324年にワラキアとハンガリーの間で締結された和平条約により、1325年にバサラブはセヴェリンの要塞を領有していたと考えた。 1327年に教皇ヨハネス22世はバサラブを「献身的なカトリックの公」と呼んでハンガリー王に対する反逆を擁護していたことから、ワラキアと教皇庁の間には協力関係があったと思えるが、どのような協約が交わされていたかは明らかになっていない。
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