ハラマ川の戦いとは? わかりやすく解説

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ハラマ川の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 14:49 UTC 版)

国際旅団」の記事における「ハラマ川の戦い」の解説

1937年2月6日マドリード近く流れハラマ川戦闘が行われ、イギリス人大隊、ディミートロフ大隊ユーゴスラビア人中心)、アンドレ・マルティ大隊ガリバルディ大隊、マッケンジー・パピノー大隊エイブラハム・リンカーン大隊アフリカ系アメリカ人中心、ロバート・メリマン大尉指揮)が投入された。 2月11日反乱軍の1個旅団モロッコムーア人中心)がアンドレ・マルティ大隊歩哨奇襲しガリバルディ大隊重火器応戦して食い止めたが、別の地点渡河されてしまった。 翌2月12日イギリス人大隊反乱軍占領した丘を攻撃したが、重火器による猛反撃を受け、7時間で600人中225人が死んだ。このとき反乱軍ムーア人兵士が「インターナショナル」を歌い降伏したふりをしてイギリス人義勇兵接近し、近づいたところで猛烈な射撃加え戦法を採った。この丘には「自殺の丘」というあだ名つけられた。 2月17日共和国軍反撃開始し2月23日から2月27日にかけて国際旅団もこれに加わったが、砲兵支援なしで大きな効果はなく、120人が死に175人が負傷したアイルランド人詩人チャールズ・ドネリーは、ハラマ・リバー・バレーというハラマ川の戦いについての歌を作った結局マドリード戦い手詰まり状態になり、ハラマ川前線膠着したまま戦い終わった。この戦いで反乱軍2万人、共和国軍2万5千人死傷者出た1937年2月22日国際連盟スペイン不干渉委員会は、スペイン内戦における外国人兵士参加禁止した

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ハラマ川の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/22 23:52 UTC 版)

ハラマ川」の記事における「ハラマ川の戦い」の解説

ハラマ川は、1937年にも激し戦闘舞台となったナショナリスト派のフランコ軍は、共和国派が支配するバレンシア首都マドリード経路断ち切ろうと、ハラマ川横断したスペイン在郷軍人アフリカモロッコ兵(レギュラーズ)によって編成されていたフランコ軍は、英国イギリス人大隊アメリカ義勇兵編成されエイブラハム・リンカーン大隊とも呼ばれる15国際旅団を含む共和国派の軍隊直面したフランコ軍は、600人中270人以上の英国人重篤損害与えたにも関わらず目的達することができずに進撃止めたその後前線塹壕戦により膠着したまま戦い続き、両陣営合わせて45,000犠牲者もたらされた。

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