ハラマ川の戦い
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1937年2月6日、マドリードの近くを流れるハラマ川で戦闘が行われ、イギリス人大隊、ディミートロフ大隊(ユーゴスラビア人中心)、アンドレ・マルティ大隊、ガリバルディ大隊、マッケンジー・パピノー大隊、エイブラハム・リンカーン大隊(アフリカ系アメリカ人中心、ロバート・メリマン大尉指揮)が投入された。 2月11日、反乱軍の1個旅団(モロッコのムーア人中心)がアンドレ・マルティ大隊の歩哨を奇襲し、ガリバルディ大隊が重火器で応戦して食い止めたが、別の地点で渡河されてしまった。 翌2月12日、イギリス人大隊が反乱軍の占領した丘を攻撃したが、重火器による猛反撃を受け、7時間で600人中225人が死んだ。このとき反乱軍のムーア人兵士が「インターナショナル」を歌い、降伏したふりをしてイギリス人義勇兵に接近し、近づいたところで猛烈な射撃を加える戦法を採った。この丘には「自殺の丘」というあだ名がつけられた。 2月17日、共和国軍は反撃を開始し、2月23日から2月27日にかけて国際旅団もこれに加わったが、砲兵の支援なしで大きな効果はなく、120人が死に、175人が負傷した。 アイルランド人の詩人チャールズ・ドネリーは、ハラマ・リバー・バレーというハラマ川の戦いについての歌を作った。 結局マドリードの戦いは手詰まり状態になり、ハラマ川の前線は膠着したまま戦いは終わった。この戦いで反乱軍に2万人、共和国軍に2万5千人の死傷者が出た。 1937年2月22日、国際連盟スペイン不干渉委員会は、スペイン内戦における外国人兵士の参加を禁止した。
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ハラマ川の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/22 23:52 UTC 版)
ハラマ川は、1937年にも激しい戦闘の舞台となった。ナショナリスト派のフランコ軍は、共和国派が支配するバレンシアと首都マドリードの経路を断ち切ろうと、ハラマ川を横断した。スペイン在郷軍人とアフリカのモロッコ兵(レギュラーズ)によって編成されていたフランコ軍は、英国のイギリス人大隊やアメリカの義勇兵で編成されたエイブラハム・リンカーン大隊とも呼ばれる第15国際旅団を含む共和国派の軍隊と直面した。フランコ軍は、600人中270人以上の英国人に重篤な損害を与えたにも関わらず、目的を達することができずに進撃を止めた。その後、前線は塹壕戦により膠着したまま戦いが続き、両陣営に合わせて45,000の犠牲者がもたらされた。
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