ハッタナ党とメッソナ党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 23:02 UTC 版)
「自由の時代」の記事における「ハッタナ党とメッソナ党」の解説
大北方戦争に敗れたスウェーデンは荒廃しており、1719年より政権を握った宰相アルヴィド・ホルンは慎重かつ厳密な管理をもって荒廃した国の復興を進めた。ホルンは、スウェーデンが大陸欧州の情勢に振り回されないよう、スウェーデンの伝統的な外交政策を覆してフランス王国と距離を置き、グレートブリテン王国(イギリス)との接近を図った。この外交政策により、20年続いた戦争の後に20年に渡る平和が訪れ、スウェーデンは急速に復興した。しかし、復興により戦争の惨禍は忘れられ、ホルンの治績も顧みられなくなり、政治家の権力闘争が始まった。 1719年以降、少数の大貴族が多くの弱小貴族を影響下に置いて所領を安堵するようになると、その中から自然発生的にカール・ギレンボリやカール・グスタフ・テッシン(英語版)のような野心的な指導者が現れるようになった。彼らは、ホルンらがスウェーデンの栄光を犠牲にし、平和に安住して惰眠を貪る者であるとしてナットメッソル党 (典: Nattmössor、ナイトキャップの意) と呼んで揶揄した(後にあまりに侮辱的であることから柔らかい帽子を意味するメッソナをあててメッソナ党 (典: Mösspartiet) と呼ぶようなった)。それに対して、自らは栄光ある繁栄を追求する志士であるとして、士官らが着用する三角帽に力強さを仮託して、ハッタナ党 (典: Hattpartiet) と名乗った。こういった一種過激なレッテルはすぐさま大衆の注目を浴び、1738年にリクスダーグが召集されたときには党派のシンボルとなっていた。 1738年のリクスダーグではホルンが失脚して引退を余儀なくされた。ホルンは二流国に転落したスウェーデンにとって、フランスとの同盟は荷が重すぎると認識してそれを回避したが、ホルンを失脚させたハッタナ党にとって、栄光なき繁栄は価値のないものであった。その代わりに、フランスとの同盟を梃子に、スウェーデンを以前のような大国とすることで栄光ある繁栄を目指した。一方のフランスは北欧に自国の地歩を維持するため、ハッタナ党に惜しみなく資金を投入した。
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