自由の時代の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 23:02 UTC 版)
詳細は「グスタフ3世のクーデター」および「1772年憲法(英語版)」を参照 国王アドルフ・フレドリクは1771年2月12日に死去した。国王の崩御に伴い行われた選挙ではメッソナ党が勝利したが、農民部会では僅差に勝利したにすぎず、貴族部会ではほとんどの議員がハッタナ党を支持した。いずれにしても、議会は新王グスタフ3世の到着(アドルフ・フレドリクの崩御時点ではパリに滞在中)まで何もできず、またグスタフ3世がどちら側につくか予想ができなかった。実際には、グスタフ3世はハッタナ党とメッソナ党に知らせずにフランスとの同盟を更新しており、グスタフ3世が親政に成功した場合にフランスは1772年1月より毎年150万リーヴルの援助金を支払うという約束もとりつけていた。 そして、グスタフ3世はストックホルムに到着すると、協議委員会を開いてメッソナ党とハッタナ党の調停を試みた。しかし調停は失敗、メッソナ党とハッタナ党は戴冠式の宣誓文をめぐって争った。メッソナ党が提案した宣誓文では退位が禁じられるほか、「4部会全てによる決定」ではなく「4部会の多数による決定」に従うとされたが、これはメッソナ党が(ハッタナ党の牛耳る)貴族部会を無視して政権を握るための変更であった。さらに人事において「主に」能力で決めるのではなく能力「のみ」で決めるという条項により、貴族特権も削ろうとした。 結局宣誓文をめぐる争議は1771年中には収まらず、グスタフ3世が再び調停を試みるもブルジョワの抵抗に遭って失敗した。やがて貴族が争いつかれて1772年2月24日に譲歩すると、メッソナ党は今度はハッタナ党最後の重鎮である枢密院を攻撃、4月25日に枢密院を廃止に追い込んだ。ここにきてグスタフ3世の王権が完全に消え去ったが、ヤーコプ・マグヌス・スプレングポルテン(英語版)がクーデターを持ちかけてきた。グスタフ3世はスプレングポルテン、ヨハン・クリストファー・トール(英語版)、王弟カールの助力を借りてクーデターを成功させた。そして、1772年8月20日に新憲法(英語版)が制定され、王権が強化されたことで自由の時代は終焉した。
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