ハイソサエティー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/03 16:00 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動ハイソサエティー High Society | |
---|---|
別名 | ハイソ |
出身地 |
![]() |
ジャンル | アイドル歌謡 |
活動期間 | 1966年 - 1973年 |
レーベル |
CBS・ソニーレコード (CBS・ソニーレーベル(1970年 - 1971年)→EPICレーベル(1971年 - 1973年)) |
事務所 | ジャニーズ事務所 |
共同作業者 |
ジャニー喜多川 メリー喜多川 ジャニーズ フォーリーブス |
旧メンバー | メンバー、脱退メンバー参照 |
ハイソサエティーは、過去に芸能事務所の「ジャニーズ事務所」に所属していたバンドグループである。 ジャニーズやフォーリーブスのバックバンドとして活動した。 このグループ名は、ジャニーズ事務所の副社長・メリー喜多川の夫であり作家の、藤島泰輔の1965年発表の小説『日本の上流社会―高貴なる秘境を探検する』に由来。 愛称は「ハイソ」。 後に「スーパーエイジス」と「アニメーション」の2つのバンドに枝分かれしていった。
メンバー
- 髙橋洋一 (リーダー)(キーボード・リードギター)
- 愛称・洋ちゃん。1953年11月1日生まれ。東京都渋谷区出身。尚、ハイソサエティーからスーパーエイジスに至るまで他のメンバーが幾度も変わる中、一番長い間所属していたメンバー。ジャニーズ事務所の一番目グループだったジャニーズのメンバーとも交流がある。ジャニーズ、フォーリーブス(江木俊夫とは中学校が同じ)、郷ひろみ等多くの音楽監督を務めた。
- ボストンから帰国後は、たのきん3球コンサートやタケカワユキヒデ等の音楽監督を務めた。ジャニーズ事務所では珍しく本格派な音楽家として後に多くのCMやテレビドラマ(NHK連続テレビ小説『京、ふたり』等)の音楽担当をした。再度米国留学し、ハーバードメディカルスクールとキャルフォルニア大学医学部に編入。現在は米国心臓協会正会員、日本循環器学会正会員、JASRAC正会員。[1]
- 村田勝美 (ドラム)
- 峯井貴史 (ベース)(愛称・ミネくん)
- 杉征夫 (ベース)
- すぎ ゆきお。愛称・スギさん。脱退後つのだ☆ひろとスペースバンドに加入。
解散後リューベン&カンパニーを経て来生たかお、アンルイス、桑名正博、ジョー山中等のコンサート、レコーディング セッション。 再結成後のフォーリーブスのツアーにも。The Lowgunsを結成、とセッション活動中。三軒茶屋で音楽食堂 夢弦を経営。
- 元持勲 (サイドギター)
- もともち いさお。グループ加入以前は、音楽家兼ピアニストの栗原茂に師事して音楽を学んだ。伯母が清川虹子。
現在ハワイ在住 地元日本語ラジオKZOO毎週水曜ナイトシャッフルに出演中
- 横内健亨 (ギター)
- この他にもまだ数名が参加。メンバー構成は実に流動的で入れ替わりが激しく、最終的には延べ15名以上の人間が参加した。
脱退メンバー
- 粟野和とし (あわの かずとし。「栗野(くりの)」は間違い。粟野トムの兄)
- 粟野トム (あわの とむ。粟野和としの弟)
- 佐山たけし (ドラム)
- 途中から「佐山タケシ」に改名。喜劇俳優、佐山俊二の長男。後にマジシャンに転向。
- 新庄一 (ベース)
- 本名「新城一」。以前は「ザ・スピリッツ」で「新城みのる」名義で活動。漢字の綴りのせいで「あらい しょういち」や「しん しょういち」などと読まれがちだが、正しい名前の読み方は「しんじょう はじめ」である。 途中で脱退し、「新庄ハジメ」に改名して、1970年10月に「寺内タケシとブルージーンズ」に加入。
- 山岡国士 (途中から「山丘邦夫」に改名。本名は山岡國士。)(エレクトーン)
- 永田英二 (愛称・英坊、英ちゃん)
- 一時期、「永田英二とハイソサエティー」として、ボーカルで参加していた。当時中学1年生。
- 柳瀬薫 (ドラム)
- すぐに脱退して半年ほど事務所を離れた後、「やなせかおる」の名で「ジューク・ボックス」のメンバーとして復帰した。
概要
- 1966年結成。 同年5月から日本劇場の「ウエスタン・カーニバル」に出演し始め、ジャニーズのバックバンドとして活動。1968年8月からはフォーリーブスのバックバンドとなり、1972年まで延べ18回連続での出演を果たした。
- 1968年9月、永田英二をボーカリストに迎え、一時期だけ「永田英二とハイソサエティー」の名で活動。
- 1970年11月、CBSソニーから、いきなりLPレコードでデビュー。
- 1971年10月、CBSソニーの新レーベル「EPIC」の第1号タレントとしてシングルレコード発売。 1971年度のレコード会社内での新人賞を受賞。
- 1973年、永田英二を正式にボーカリストに迎え入れた新たなバンド「スーパーエイジス」を発足するため、高橋と村田が脱退。 しばらく残りのメンバーだけで「ハイソサエティー」として活動していたが、同年にバンド名を新たに「アニメーション」に改名した。
ディスコグラフィ
シングル
- 不思議な恋の物語 c/w 君を奪いたい(高橋洋一ソロ) (1971年10月、EPIC)
アルバム
- 世界へジャンプ ハイソ・サンライズ・プレゼント (1970年11月、CBSソニー)
- ハロー・ハロー・ハロー (EPIC)
主な出演作品
ミュージカル
日本劇場でのステージ
- 第29回ウエスタン・カーニバル (1966年5月5日 - 12日)
- 第30回ウエスタン・カーニバル (1966年8月27日 - 9月2日)
- 第31回新春日劇ウエスタン・カーニバル (1967年1月15日 - 21日)
- 第32回ウエスタン・カーニバル (1967年5月5日 - 12日)
- 第33回ウエスタン・カーニバル (1967年8月26日 - 9月1日)
- 第34回ウエスタン・カーニバル (1968年1月15日- 22日)
- 第35回ウエスタン・カーニバル (1968年5月4日- 10日)
- 第36回ウエスタン・カーニバル (1968年8月26日- 9月2日)
- 第37回ウエスタン・カーニバル (1969年1月14日- 21日)
- 第38回ウエスタン・カーニバル (1969年5月5日- 12日)
- 第39回ウエスタン・カーニバル (1969年8月25日- 9月1日)
- 第40回ウエスタン・カーニバル (1970年1月15日 - 22日)
- 第41回ウエスタン・カーニバル (1970年5月2日 - 8日)
- 第42回ウエスタン・カーニバル (1970年8月25日 - 9月1日)
- 第43回日劇新春ウエスタン・カーニバル (1971年1月15日 - 22日)
- 第44回日劇ウエスタン・カーニバル~みんなで踊ろう! (1971年4月23日 - 29日)
- 第45回ウエスタン・カーニバル (1971年8月27日 - 9月2日)
- 第46回ウエスタン・カーニバル (1972年1月15日 - 22日)
- 第49回ウエスタン・カーニバル (1973年5月4日)
関連項目
脚注
外部リンク
- 高橋洋一 オフィシャルウェブサイト
- (株)オフィス・タッチ 永田英二(現:長田栄二)が代表を務める音楽事務所
- The PIANO 元持勲が経営するハワイの店
ハイソサエティー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/19 17:36 UTC 版)
「ジャニーズ 未音源一覧」の記事における「ハイソサエティー」の解説
曲名年代初出作品備考世界へジャンプ! 1970年11月21日 LP『世界へジャンプ! ハイソサエティ・サプライズ・プレゼント』 作詞:寺山修司 何かいいことありそうだ 赤とんぼ 編曲:ハイ・ソサエティー サニー 原曲:ボビー・ヘブ、編曲:ハイ・ソサエティー 明日に架ける橋 原曲:サイモン&ガーファンクル、編曲:ハイ・ソサエティー ルシール 原曲:リトル・リチャード、編曲:ハイ・ソサエティー 裸の少年 原曲:ジャニーズ。詩の朗読:北公次 質問 作詞:寺山修司、編曲:ハイ・ソサエティー エリノア・リグビー 原曲はビートルズ ロミオとジュリエット ロシアより愛をこめて 映画『007 ロシアより愛をこめて』より) (編曲:ハイ・ソサエティー ガラスの部屋 原曲はペピーノ・ガリアルディで、後にお笑い芸人・ヒロシのテーマソングとしても有名になった曲。 若き悩み 世界へジャンプ! (#2) ぼくらに微笑を 1971年12月 LP『ハイソサエティー・ファースト・ヒット・アルバム 不思議な恋の物語 / ハロー・ハロー・ハロー』 原曲はシカゴ クエスチョンズ67/68 原曲はシカゴ 長い夜 原曲はシカゴ ホエン・ザ・ミュージックス・オーバー 原曲:ドアーズ、編曲:高橋洋一 涙の乗車券 高橋のソロ曲。原曲:ビートルズ、編曲:高橋洋一 I Remember 原曲はジャニーズ、編曲:高橋洋一 ハロー・ハロー 原曲はストーミー・ペトレル 恋のかけひき 原曲はハミルトン・ジョー・フランク・アンド・レイノルズ 愛はそよ風 太陽の沈む街へ 嘆きの星座
※この「ハイソサエティー」の解説は、「ジャニーズ 未音源一覧」の解説の一部です。
「ハイソサエティー」を含む「ジャニーズ 未音源一覧」の記事については、「ジャニーズ 未音源一覧」の概要を参照ください。
- ハイ・ソサエティーのページへのリンク