ハイダリ収容所所長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/06 13:50 UTC 版)
「パウル・オットー・ラドムスキー」の記事における「ハイダリ収容所所長」の解説
1943年11月28日、ラドムスキーはギリシャ・アテネ近くのハイダリ強制収容所(英語版)に所長として赴任した。なお、前任者のルディ・トレプテ軍曹(Rudi Trepte)と2名のギリシャ語通訳はゲシュタポによって逮捕されているが、その理由は現在でも明らかになっていない。 ラドムスキー着任後、収容者は日曜日を除いて1日4時間2シフトの体制で労働を割り当てられた。収容者らは100人ごとのグループに分けられ、各グループの責任者は古いローマ軍の役職名から百人隊長と呼ばれた。収容者は日々、穴を掘っては埋めたり、壁を立てては破壊したりを繰り返すことを強いられていた。ラドムスキーは単に収容者の士気を破る為だけに、これらの生産的目的を一切廃した労働を課したのである。 12月7日、収容所における最初の処刑が実行された。レビという名のギリシャ系ユダヤ人が「逮捕時に逃亡を図った」として、ラドムスキーの独断で処刑されたのである。この処刑の目的は他の収容者に対する見せしめと警告の意味合いがあったとされている。戦後の心理学的研究によれば、この処刑が「収容者を絶え間ない恐怖に晒される生活環境に置いていた」という。ラドムスキー着任後の1年間でおよそ1,800名が処刑され、また300名がアテネのゲシュタポ支部によって拷問を受けて死亡した。これらの中には30名の女性、104名の病人、230名の学生が含まれる。 1944年2月、酒に酔って副官を射殺しかけた為に所長職を解任された。さらに親衛隊中尉への降格と6ヶ月の懲役も言い渡されている。正式な解任は1944年4月15日に行われたが、2月27日から後任者カール・フィッシャー(Karl Fischer)中尉が事実上の所長として勤務を始めている。 戦後の消息は長らく不明とされていたが、2005年にハンブルク検察(Staatsanwaltschaft Hamburg)が調査を行った結果、ラドムスキーが1945年3月14日にハンガリーのセーケシュフェヘールヴァール近くで殺害されていたことが判明した。
※この「ハイダリ収容所所長」の解説は、「パウル・オットー・ラドムスキー」の解説の一部です。
「ハイダリ収容所所長」を含む「パウル・オットー・ラドムスキー」の記事については、「パウル・オットー・ラドムスキー」の概要を参照ください。
- ハイダリ収容所所長のページへのリンク