ノージックによる試み 答えられないだろうが、挑戦する
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「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」の記事における「ノージックによる試み 答えられないだろうが、挑戦する」の解説
詳細は「分析的形而上学」を参照 アメリカの哲学者ロバート・ノージック(1938年 - 2002年)は、この問題を再び哲学の中に呼び込むきっかけを作る。1981年の論文「なぜ何もないのではなく、ものがあるのか?」という大部の論文(英語で50ページ弱、邦訳二段組で80ページ強)で、この問題は解けないように思うが、無視できる問題でもないとして、ありうる解答の可能性について網羅的に模索を行った。この論文は次の一文で始まる。 この問題には答えることができないように思える。 — ロバート・ノージック 「なぜ何もないのではなく、ものがあるのか?」(1981年) 冒頭文。 戸田山和久 訳 そして論文の内容を以下のように概説する。 本章ではこの問題に対して考えられる解答をいくつか検討する。私の目的はこうした解答のうちひとつを正解として主張することではない。…むしろ、目的は、答えようのない問題、答えようがないが避けることもできない問題に私たちははまりこんでしまっている…、という気分を緩和することにある。ところが、この問題はとてつもなく深いところまで及ぶものなので、解答を生み出す見込みのありそうなアプローチはどれもこれもひどく薄気味悪いものに思える。…とはいえ、この問題は斥けてしまえるようなものではないのだから、それに答えようとしている理論の奇妙さや気違いじみているところを受け入れる覚悟がなければならない。… 私はこれから議論される解答例のうちのひとつを正しいものとして支持したりはしない。そうするには時期尚早なのだ。しかし、この問題の歴史において、単にひとつの立場に固執しつつ問題を問うだけというのはそろそろやめにして、いくつもの考えられる解答を提案することを始めるには、十分に機が熟しているだろう。 — ロバート・ノージック 「なぜ何もないのではなく、ものがあるのか?」 (1981年) 戸田山和久 訳 こうして自身は分析対象とする解答例のどれ一つとして支持しないと明言した上で様々な解答の可能性を詳細に分析する。そして最後に、満足な解答例は一つもなかった、として論文を閉じた。だがそれでもこうした探索には哲学的な意味はあったとした。論文の末尾で自身が行った哲学的分析の意義について次のように書いている。 哲学的説明と哲学的理解の目標に照らして、私たちはこの問題を解決する必要はない。諸仮説を吟味し、詳細に論じ、その筋道を追えば十分である。 — ロバート・ノージック 「なぜ何もないのではなく、ものがあるのか?」(1981年) 戸田山和久 訳 論理実証主義や分析哲学の台頭で不活発となっていた存在についての形而上学的な問いは、ノージックの論文以降、再び議論が活性化し始める。現代における哲学上の議論は、分析的形而上学(Analytic Metaphysics)と言われるスタイルを持ち、分析哲学の方法論と道具立てをふんだんに取り入れた形で営まれている。
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