ネズ・パース戦争
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「アパルーサ (馬)」の記事における「ネズ・パース戦争」の解説
ネズ・パース族とアメリカ合衆国の友好関係はルイスとクラークが取り持った同盟関係によって確立したものの、砂金掘りが西へ西へと押し寄せた1860年代から入植者が増えた1870年代を経て、ネズ・パース族が圧迫を受け始める。1855年の協定は伝統的にネズ・パース族のものとされてきた土地の大部分について、彼らの所有権を認めたはずなのだが、1863年の取り決めで9割を失ってしまう。この取り決めを拒否して土地を動かなかったネズ・パースの人々の中にオレゴン州のウォラワ峡谷に住みハインモット・トゥーヤラケクト (通称ジョゼフ酋長(en)) が率いる集団がいた。緊張が高まると1877年5月、オリバー・O・ハワード将軍が協議会を召集、1863年の取り決めに反対する集団に居留地へ移るよう強要する。ジョセフ酋長は武力で抵抗してもむなしいと判断、期限の1877年の6月14日までに部族の600人ほどを現在のアイダホ州グランジビル(en)あたりに集めた。ところが同じ日、部族の戦士たちが近くの白人入植者を襲ったことから、ネズ・パース戦争が始まったのである。アイダホ州にいるうちは小競り合いを繰り返し、戦士を除くおよそ800人ほどの人々が2000頭あまりの馬や家畜をつれてモンタナ州へ逃れる。そこから南へと旅を続けると現在のイエローストーン国立公園に隠れる。その間も少数精鋭のネズ・パースの戦士200人ほどはアメリカ陸軍と小競り合いを繰り返し、モンタナ州北東部のビッグ・ホールの戦いで相手を押しとどめていた 戦士たちは北東へ逃れてクロウ族に身を寄せたいと申し入れて拒絶され、カナダへ向かう。 全行程2300キロ (1400マイル)の旅のあいだ、ネズ・パースの人々は足が速く耐久力に優れて頑丈なアパルーサに頼って先へ先へと進んでいく。旅が終わったのはカナダとの国境から64キロ (40マイル) のベアーズ・パウ・マウンテンで休憩したときである。部族の人々にさとられないようにネルソン・A・マイルズ大佐は歩兵連隊騎兵縦隊を率いて Fort Keogh を出発、追跡していたのである。1877年10月5日、5日間の交戦の末、ジョゼフ酋長は降参した。戦い、すなわち戦争はこうして終わった。先住民の部族長のほとんどが亡くなり、戦士ではない者たちは寒さに震え食べるものに困っていた。ジョゼフ酋長は「今後二度と戦うことはない」と明言している。
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