ネズ・パース戦争とは? わかりやすく解説

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ネズ・パース戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/17 01:18 UTC 版)

アパルーサ (馬)」の記事における「ネズ・パース戦争」の解説

ネズ・パース族アメリカ合衆国友好関係ルイスとクラーク取り持った同盟関係によって確立したものの、砂金掘り西へ西へ押し寄せた1860年代から入植者増えた1870年代経てネズ・パース族圧迫を受け始める。1855年協定伝統的にネズ・パース族のものとされてきた土地大部分について、彼らの所有権認めたはずなのだが、1863年取り決めで9割を失ってしまう。この取り決め拒否して土地を動かなかったネズ・パース人々中にオレゴン州のウォラワ峡谷住みハインモット・トゥーヤラケクト (通称ジョゼフ酋長(en)) が率い集団がいた。緊張が高まると1877年5月オリバー・O・ハワード将軍協議会召集1863年取り決め反対する集団居留地へ移るよう強要するジョセフ酋長武力抵抗してむなしい判断期限1877年6月14日までに部族600人ほどを現在のアイダホ州グランジビル(en)あたりに集めた。ところが同じ日、部族戦士たち近く白人入植者襲ったことから、ネズ・パース戦争が始まったのであるアイダホ州にいるうちは小競り合い繰り返し戦士を除くおよそ800人ほどの人々2000頭あまりの馬や家畜をつれてモンタナ州逃れる。そこから南へと旅を続けると現在のイエローストーン国立公園隠れる。その間少数精鋭ネズ・パース戦士200人ほどはアメリカ陸軍小競り合い繰り返しモンタナ州北東部ビッグ・ホール戦いで相手押しとどめていた 戦士たち北東逃れてクロウ族身を寄せたいと申し入れて拒絶されカナダへ向かう。 全行程2300キロ (1400マイル)の旅のあいだ、ネズ・パース人々は足が速く耐久力優れて頑丈なアパルーサ頼って先へ先へと進んでいく。旅が終わったのはカナダとの国境から64キロ (40マイル) のベアーズ・パウ・マウンテンで休憩したときである。部族人々にさとられないようにネルソン・A・マイルズ大佐歩兵連隊騎兵縦隊率いて Fort Keogh を出発追跡していたのである1877年10月5日5日間の交戦の末、ジョゼフ酋長降参した戦い、すなわち戦争はこうして終わった先住民の部族長のほとんどが亡くなり戦士ではない者たちは寒さ震え食べるものに困っていた。ジョゼフ酋長は「今後二度と戦うことはない」と明言している。

※この「ネズ・パース戦争」の解説は、「アパルーサ (馬)」の解説の一部です。
「ネズ・パース戦争」を含む「アパルーサ (馬)」の記事については、「アパルーサ (馬)」の概要を参照ください。

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