ドナウ流域のボイイ族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 22:53 UTC 版)
古代の著作家の解釈に反して、ボイイ族はかなり早くからパンノニアに定住したことが考古学などから判明しており、イタリアから移住してきたのではなく、それとは別系統の部族だったと見られている。イタリアのボイイ族と同時代のボヘミアのボイイ族は埋葬儀礼に多くの点で一致が見られ、他のキサルピナのガリア人とは異なる。あるいは、西ケルト人の典型的装身具であるトルクが見られない。このことから、ボイイ族がボヘミアからキサルピナに移住してきたのであって、その逆ではないという解釈が最も可能性が高い。すなわち、アルプスの北からイタリアに移住したボイイ族は、イタリアを去って同族の住む地に戻ったと考えられる。 パンノニアのボイイ族は、紀元前2世紀後半にキンブリ族とテウトネス族を撃退したことで歴史に名を残している。その後ボイイ族は(現在のオーストリアにあたる)ノーレイアという町を攻撃し、その直後にボイイ族の一団(ユリウス・カエサルによれば3万2千人だが、誇張されている可能性が高い)がヘルウェティイ族と共に西ガリアへの移住を試みた。ヘルウェティイ族はビブラクテで敗退したが、有力なハエドゥイ族がボイイ族の生き残りの定住を許し、彼らはゴルゴビナのオッピドゥムに住むようになった。ガリア戦争の中でウェルキンゲトリクスと交戦することもあったが、アレシアの戦いでは2000人のボイイ族がウェルキンゲトリクス側に加わった。 ボイイ族はまた、古くから住んでいた土地にも住み続けており、ハンガリーのドナウ川およびムール川の流域、ブラチスラヴァを中心とする地方に住んでいた。紀元前40年ごろ、ブレビスタを王とするダキア人が台頭し、ボイイ族は彼らに敗退した。ローマが紀元8年にパンノニアを完全に征服したとき、ボイイ族はローマに敵対する姿勢を見せなかった。ボイイ族の居住していた地域は deserta Boiorum(desertaとは「ほとんど人が住んでいない土地」)と呼ばれるようになった。しかし、ボイイ族は根絶されたわけではなく、ドナウ流域長官 (praefectus ripae Danuvii) の支配下に civitas Boiorum et Azaliorum(Azaliiは隣接して住んでいた部族)と呼ばれる住民がいた。このキビタス (civitas) はローマの行政用語であり、都市とその周辺に住む部族を指し、後にそれに隣接してカルヌントゥムが建設された。
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