ドゥアールとは? わかりやすく解説

ドゥアール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 00:58 UTC 版)

ブータン戦争」の記事における「ドゥアール」の解説

ブータンの南には肥沃な平原地帯のコチ・ビハールが広がっており、両者の間にはヒンディー語で「門」を意味するドゥアール(英語版地方アッサムベンガルまたがって存在していた。そのためブータンのペンロップ(地方長官)たちはしばしばドゥアールを通過して南方へと侵入し、コチ・ビハールを緩やかな勢力圏加えて穀物織物などの交易獲得した。またコチ・ビハールは小領主たちが乱立する一帯でもあり、ブータン保護を必要としていた。1730年にはムガル帝国軍事的にコチ・ビハールを影響下に治めようとするが、ブータンのトンサ・ペンロップ(ペンロップはブータン地方行政長官名目上全土統治者デシには実権乏しくブータン三人のペンロップが三分割して統治していた。中でも中央部最重要拠点トンサ(Trongsa)から東と東南支配するトンサ・ペンロップは最有力者)は軍を派遣してこれを退けて干渉強め、コチ・ビハールの統治者任命権獲得した。 だがトンサ・ペンロップの任命したコチ・ビハールの領主相次いで暗殺された。1772年には任命したコチ・ビハール領主反旗を翻しイギリス東インド会社接近すると、歳入半分にあたる額の支払い東インド会社軍事費負担することを条件にその保護下に入る。そのためコチ・ビハールを巡って東インド会社インド兵とトンサ・ペンロップ軍が衝突したがペンロップが破れ山岳地帯領内引き上げた。しかし当時イギリス植民地行政官ウォレス・ヘースティングズには紛争長期化する意図はなく、チベット仲介もあって1774年国境線紛争以前に戻すアングロ・ブータン条約締結した。この寛大な講和による東インド会社目的チベットへ交易路確立であり、この権益確立のためにしばしばブータン使節団派遣し(1774、1776-1777、1783、1815)、友好関係構築した。また1792年にはチベットネパール侵攻に対して清の支援受けてこれを撃退したが、そのため清の支配権強まって諸外国チベット通商厳しく制限される事態になった。この事件交易路失ったイギリスネパールとの関係悪化招きブータン交易路としての重要性逆に高まっていった。

※この「ドゥアール」の解説は、「ブータン戦争」の解説の一部です。
「ドゥアール」を含む「ブータン戦争」の記事については、「ブータン戦争」の概要を参照ください。

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