アシュリー・イデン使節団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 00:58 UTC 版)
「ブータン戦争」の記事における「アシュリー・イデン使節団」の解説
ジグミ・ナムゲルは旧来の通り、ドゥアール地方の領有権をイギリスに求めたが、イギリス政府は同地域でのプランテーション建設を決定しており、度々両者の間で小競り合いが発生した。イギリスは交渉あるいは圧力でこれを解決することを願ったが、イギリスにはブータン国内の情報が不足しており、その権力構造や協調関係を読み解くことができなかった。またイギリスの対ブータンを受け持つジェンキンス大佐が強圧的な外交姿勢に転じており、両国の暫定国境では明らかにブータン側にあったアンバリ・ファラカタを1860年に強引に併合し、ブータン側の姿勢は極度に硬化していた。 イギリスは友好関係構築のために度々使節団の派遣を申し入れたが、国内の平定を急ぐジグミ・ナムゲルの密かな手回しにより入国を拒否されていた。しかし1863年、ブータンの拒否にも関わらずイギリスは「ブータンへのアンバリ・ファラカタの返還」「犯罪者の相互引き渡し」「シッキム及びコチ・ビハールのイギリス保護国の確認と紛争の停止」「ブータン国内へのイギリス代理人常駐」「自由貿易協定」の条約締結を目的とするアシュリー・イデン使節団を派遣した。アシュリー・イデン使節団は度重なるブータンの帰還要求を受けたがこれを無視し、協力者もいない中で冬季の山岳地帯を越えてブータンの首都プナカに到着する。このためジグミ・ナムゲルは代表として彼らに応対したが、ジグミ・ナムゲルは条約の中にドゥアール地方の返還を盛り込むことを要求し、アシュリー・イデンは自らに決定の権限がないことを理由に協議を拒否した。これはイギリスにドゥアール地方に関して交渉の余地がないことを示すものであり、ジグミ・ナムゲルを激怒させた。 1864年3月、二度目の交渉が行われ、ジグミ・ナムゲルは改めて「自由貿易協定」「イギリス代理人の常駐」の削除と、「ドゥアール地方の返還」を要求した。この会談は始まりから険悪な空気に包まれ、双方ともに尊大さと侮蔑をあらわにした。またアシュリー・イデンは突然要求に同意して条約に調印したが、それはイギリス領インドに早期に帰還するための判断であり、帰還後にはブータン側の脅迫により調印を強制されたものとして条約の無効を宣言した。またインド総督はアシュリー・イデンとの条約を盾に再交渉を拒絶するジグミ・ナムゲルを屈服させるため、軍事力の行使を決定する。イギリスは1864年11月にアッサム・ドゥアールとアンバリ・ファラカタの完全併合を宣言し、両地方におけるブータンへの補償金支払いを停止すると、ベンガル、コチ・ビハール、アッサム方面に軍を派遣した。
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