トンマーゾ・インギラーミの肖像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/24 09:28 UTC 版)
| イタリア語: Ritratto di Tommaso Inghirami 英語: Portrait of Tommaso Inghirami |
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| 作者 | ラファエロ・サンツィオ |
|---|---|
| 製作年 | 1510年-1511年頃 |
| 種類 | 油彩、板 |
| 寸法 | 89.5 cm × 62.5 cm (35.2 in × 24.6 in) |
| 所蔵 | パラティーナ美術館、フィレンツェ |
『トンマーゾ・インギラーミの肖像』(トンマーゾ・インギラーミのしょうぞう、伊: Ritratto di Tommaso Inghirami, 英: Portrait of Tommaso Inghirami)は、盛期ルネサンスのイタリアの巨匠ラファエロ・サンツィオが1510年から1511年頃に制作した肖像画である。油彩。人文主義者、弁論家、教養人であった教皇庁の聖職者トンマーゾ・インギラーミ(Tommaso Inghirami, 1470年-1516年)を描いている。現在はフィレンツェのパラティーナ美術館に所蔵されている[1][2][3][4][5][6][7]。また同時期の複製がボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館に所蔵されている[1][2][3][4][5][7][8]。
人物
トンマーゾ・インギラーミは1470年にトスカーナ地方にある都市ヴォルテッラの裕福な貴族の家庭に生まれた。しかし彼の父親は1472年2月22日の民衆蜂起で殺され、財産を没収された[4]。幼いトンマーゾは彼の叔父によってフィレンツェに連れて行かれ、ロレンツォ・デ・メディチの保護下で育てられた[4]。するとすぐにその知性と才能がロレンツォに認められ、ローマに送られた。ローマではヴァチカンの高位聖職者となっていた2人の叔父のもとで暮らしながら、歴史家・人文主義者のポンポニオ・レトの指導のもとアカデミア・ロマーナで学び、1498年にポンポニオ・レトが死去すると修辞学の教授職を引き継いだ[2][4]。トンマーゾに「パイドラ」という異名があったことはよく知られる。これは16歳のときに古代ローマのセネカによる悲劇『パイドラ』(Phaedra)で主役を演じた際に、舞台装置の故障をラテン詩の即興で救ったことにちなむ[2][4]。ローマ教皇ユリウス2世とレオ10世のもとで数々の公職を歴任し、1510年にはヴァチカン図書館の館長に就いた。本作品はこの時期に制作された[2][4]。当時を代表する知識人の1人であったトンマーゾはラファエロとともに「署名の間」の装飾プログラムを作成したと考えられている[4][6]。1509年から1510年にかけて「署名の間」に描かれた『アテナイの学堂』(La Scuola di Atene)のエピクロスはトンマーゾをモデルに描かれたと考えられている[7]。
作品
トンマーゾ・インギラーミは暗い背景を背に書斎に座り、赤いローブを着て茶色の帯を締め、赤い帽子を被った姿で描かれている。この赤い帽子と赤いローブはトンマーゾがサン・ピエトロ大聖堂の聖堂参事会員であり、この教皇の大聖堂と教皇執務室における責任者の1人であることを示している[5][8]。机の前に座ったトンマーゾの右手にはペンが握られており、手元にはインク壺とクワイアと呼ばれる紙の束が置かれている[8]。トンマーゾは書見台の上に開かれた書物を閲覧しながらペンを止め、自らの考えを上手く表現した言葉を探すかのように右上の虚空を見つめている[5]。しかし考え事に没頭する姿は霊感が降りてきているように見え[6]、右手のペンは今まさに考えを書き留めるために走り出そうとしているかのようである[2][4]。ラファエロは公式の業務の雰囲気をトンマーゾに漂わせながらも、微妙な色彩と光のタッチを加えることを怠ることなく、より実際の人間らしい外観について深い見方をした。顔のあらゆる線、剃ったばかりの髭、ローブの端に触れるたるんだ顎、紙の束に触れる肉付きのいい手だけでなく、トンマーゾのよく知られていた身体的特徴である斜視をも描写した[2]。
トンマーゾの肖像画は過度な壮大さや劇的な描写なしに、視覚の豊かさと鮮やかな色彩で表現されている点で類いまれな作品である[6]。トンマーゾの右目の斜視は芸術家が肖像画を描くうえで決して削除することのできない身体的欠点であるが、ラファエロの巧みな構図、特に右上を見つめる頭部の角度によってそのインパクトが弱められ[8]、霊感に触発されたことを示唆するポーズの中にほとんど溶け込んでいる。ラファエロはトンマーゾの容姿を理想化することも、自然主義に忠実であろうとするあまり不快な描写に陥ることもしていない。しかしそれによって、肖像画の写実性と威厳をともなう祝祭性との間で、調和のとれた均衡を保っている[6]。
暗い背景はもともと緑色のドレープであった。この衣服と背景の色彩の鮮やかな対照性はナショナル・ギャラリー所蔵の『教皇ユリウス2世の肖像』(Ritratto di Giulio II, 1511年)やパラティーナ美術館所蔵の『ビッビエーナ枢機卿の肖像』(Ritratto del cardinal Bibbiena, 1516年頃)といった作品でも見られる[2][7]。
肖像画の制作経緯は判然としないものの、トンマーゾの昇進を記念する意図があったと思われる[8]。トンマーゾがサン・ピエトロ大聖堂の聖堂参事会員に任命されたのは1509年1月のことで、おそらく同年にヴァチカン宮殿でフレスコ画の制作に取り組んでいたラファエロを紹介された[8]。したがって制作年代はそれ以降、トンマーゾがヴァチカン図書館の館長に任命された1510年か、あるいはレオ10世が教皇に選出されたコンクラーベで秘書を務めた1513年に描かれたと考えられている[5]。
肖像画はパラティーナ美術館のバージョンのほかに、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館のバージョンが知られており、両作品のどちらを真作と見なすかについて見解の相違がある[3][6]。特に19世紀後半から美術史家ジョヴァンニ・モレッリやバーナード・ベレンソンを始めとする多くの研究者はボストン版を真作とし、本作品を工房で制作された複製かあるいは古い模写であると見なした。しかし1980年代以降はボストン版の優位性を疑問視する意見が出されている。たとえば1984年の展覧会「フィレンツェのラファエロ」(Raphael at Florence)の目録では、本作品が真作であることを示す科学的証拠が引用された。さらにジョヴァンニ・バティスティニ(Giovanni Batistini)は『バーリントン・マガジン』1996年8月号で、トンマーゾの故郷であるヴォルテッラのインギラーミ宮殿の記録文書に基づき、ボストン版が17世紀の模写であることを示唆した[5]。いずれにせよ両作品には一貫性があり、差異もわずかである。そのため一部の研究者はどちらもラファエロの作品と考えている[6]。
来歴
本作品に関する最初の確実な記録は1663年から1666年にかけての枢機卿レオポルド・デ・メディチの財産目録である[5]。肖像画の初期の来歴はもとより、メディチ家のコレクションに加わった経緯も不明である。トンマーゾがメディチ家出身の教皇であるレオ10世に贈ったという説もあるにせよ、確証はない[5]。レオポルド・デ・メディチの財産目録によると、肖像画はピッティ宮殿の「絵画の大広間」に飾られており、1723年には大公子フェルディナンド・デ・メディチの居室「アルコーヴの部屋」、1771年には「ユピテルの間」、1829年に「サトゥルヌスの間」で飾られた。第二次世界大戦中は保管のためにポッジョ・ア・カイアーノのメディチ家別荘に運ばれた約100点の美術品の1つに選ばれ、その後はカマルドリ修道院、ウフィツィ美術館に移され、1946年にパラティーナ美術館に戻された[3]。
ボストン版
イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館所蔵のバージョンはヴォルテッラのインギラーミ宮殿旧蔵の作品で[1][5]、1898年にボストンの美術収集家イザベラ・スチュワート・ガードナーによって購入された[5][8]。購入に際し、イザベラとバーナード・ベレンソンは1万5,000ポンドという高額の提示額をめぐって数ヶ月にわたって値価格交渉を行った。当時の所有者は貧困を訴えており、ベレンソンは提示額が破格であると主張した。しかし実際にはベレンソンの主張は誤っており、それを好機と見た別の美術商が肖像画を半額で売却しようとした。ベレンソンは7,000ポンドで譲歩せざるを得なくなり、大金を騙し取ろうとしているのではないかという疑念をイザベラの夫ジョン・ローウェル・ガードナーに抱かせることとなった[8]。
本作品との差異はほとんどないものの、ボストン版ではより重厚な体格で描かれている。一説によるとボストン版は本作品よりも遅い1512年から1514年にかけて制作されたと考えている[6]。一方、美術館の見解ではピッティ版よりもやや早い1510年頃としている[8]。
ギャラリー
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パラティーナ美術館のバージョンの容貌(ディテール)
脚注
- ^ a b c 『西洋絵画作品名辞典』 1994, p. 864。
- ^ a b c d e f g h i “Portrait of Tommaso Inghirami, known as “Phaedra””. ウフィツィ美術館公式サイト. 2025年10月17日閲覧。
- ^ a b c d “ritratto di Tommaso 'Fedra' Inghirami'”. ウフィツィ美術館公式サイト. 2025年10月17日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “INGHIRAMI, Tommaso, detto Fedra. Dizionario Biografico degli Italiani - Volume 62 (2004)”. Treccani. 2025年10月17日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j “Raphael”. Cavallini to Veronese. 2025年10月17日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “Portrait of Tommaso Inghirami”. Web Gallery of Art. 2025年10月17日閲覧。
- ^ a b c d “The portrait of Tommaso Inghirami is considered to be the first painting in which Raffaello introduced movement”. 北マケドニア共和国考古学博物館公式サイト. 2025年10月17日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j “Tommaso Inghirami, about 1510”. イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館公式サイト. 2025年10月17日閲覧。
- ^ “Portrait of Pope Julius II”. ナショナル・ギャラリー公式サイト. 2025年10月17日閲覧。
- ^ “Portrait of Cardinal Bibbiena”. ウフィツィ美術館公式サイト. 2025年10月17日閲覧。
参考文献
- 黒江光彦 監修『西洋絵画作品名辞典』三省堂、1994年、864頁。ISBN 978-4385154275。
外部リンク
- トンマーゾ・インギラーミの肖像のページへのリンク