トリポリの戦いとトルチェスク包囲
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「キプチャク」の記事における「トリポリの戦いとトルチェスク包囲」の解説
1093年、キエフ大公フセヴォロド1世が死去すると、ポロヴェッツはルーシの地に来て、平和について談判すべく、新たなキエフ大公スヴァトポルク2世に使者を遣わした。スヴァトポルク2世は父祖伝来の親衛隊(ドルジーナ)と合議せず、トゥーロフから来た者らと相談し、ポロヴェッツの使者たちを捕えて丸太小屋に押し込めた。ポロヴェッツはこのことを聞くと侵攻を開始し、トルチェスクの町を包囲した。スヴァトポルク2世はポロヴェッツが来たことを聞くなりポロヴェッツの使者たちを釈放したが、ポロヴェッツはルーシの地に沿って軍を進めた。スヴァトポルク2世は彼らに対抗すべく戦士たちを集め、キエフ大公スヴァトポルク2世,ペレヤスラヴリ公ヴラヂミル2世モノマフ及びロスチスラフはトリポリに向かって出発し、ストゥグナ川にやって来た。スヴァトポルク2世,ヴラヂミル2世モノマフ及びロスチスラフは川を越え、右側をスヴァトポルク2世、左側をヴラヂミル2世モノマフ、中央をロスチスラフが進んだ。トリポリを通り、土塁を過ぎるとポロヴェッツ軍が待ち構えており、彼らの先頭に射手たちが立った。ルーシ軍は土塁と土塁の間に留まり、戦旗(スチャーグ)を押し立て、射手たちは土塁から出た。一方、ポロヴェッツ軍は土塁に近づき、自らの旗を立て、第一にスヴァトポルク2世に対して攻撃を加え、彼の軍隊を撃ち破った。スヴァトポルク2世は堅固に踏みとどまっていたが、彼の家来たちが逃げ出したため、後からスヴァトポルク2世も逃げ出した。次いでポロヴェッツはヴラヂミル2世モノマフを攻撃し、ヴラヂミル2世モノマフとロスチスラフを敗走させた。ポロヴェッツは自分らの勝利を見てルーシを攻めるべく進軍したが、ある者はトルチェスクに引き返してトルチェスクを包囲した。トルチェスクのトルク人は彼らに反抗し、町の中から堅固に戦い、多くの敵を倒した。ポロヴェッツは攻撃を始め、水を奪い取った。すると町の人々は渇きと飢えのために困窮し始めた。トルク人の要請により、スヴァトポルク2世は彼らに食料を送ったが、戦士が多すぎるため、町まで届かなかった。ポロヴェッツは町の周囲に9週間留まって2つに分かれた。一方は町の近くに残って包囲を続け、一方はキエフに向かい、キエフとヴイシゴロドの間で攻撃をおこなった。7月23日、スヴァトポルク2世はジェエラニ川(ru)に出陣し、両軍は互いに攻撃し合った。しかし、キエフ軍は敗北して逃げ出し、多くの者が戦死した。戦死者はトリポリの戦いよりも一層多かった。スヴァトポルク2世は生き残った2人と共にキエフに帰り、ポロヴェッツはトルチェスクに戻った。ポロヴェッツがトルチェスクの包囲に戻ると、町の人々も飢えのために遂に降伏した。ポロヴェッツ人らはトルチェスクの町を取ると、そこに火を放ち、人々を分配して奴隷とした。 1094年、スヴァトポルク2世はポロヴェッツと和を結び、ポロヴェッツの侯トゥゴルトカンの娘を妻とした。この年、オレーグがトムトロカーニからポロヴェッツと共にチェルニゴフにやって来た。ヴラヂミル2世モノマフが町に籠城したため、オレーグは町に来て町のありとあらゆるものを焼き、修道院に火を放った。ヴラヂミル2世モノマフはオレーグと和を結び、町から出てペレヤスラヴリ公となり、オレーグは父の町であるチェルニゴフに入った。
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